scene7: 罪深きマジックアワー

 赤色の空に浮雲が黒い影を作っている。その下で、八浦高校へ続く坂を上る女子高生の姿があった。家を飛び出したままの朱里は半螺旋のてっぺんに辿り着くとそのまま校門を突っ切り、おぼろげな記憶を頼りに自転車小屋まで辿り着く。スタンドの緩い二輪を柱に立てかけた後に生徒玄関の前まで辿り着くが、違う学年の使っている下駄箱を見て足が止まった。

 朱里の中で、三ヶ月の時間が一気に流れていった。ようやく自分の学年が使う下駄箱の一群に辿り着くも、無機質に番号だけが振られた様子に手詰まりとなってしまう。


 遠くからは吹奏楽部の音出しが響く。

 棚を人差し指で叩きながら溜め息を吐いていると、廊下を叩く足音がした。


「あら、あなたはもしかして……」


 その声には辛うじて聞き覚えがあった。顔を上げた先に立っていたのは、涼しげなブラウス姿の女教師だった。


「……湊、先生」

「本当に久しぶり、船場さん。今日は、学校に来られたのね?」

「学校に来たかったわけじゃ……あの」


 数ヶ月ぶりの会話に息を詰まらせながら、朱里は念入りに言葉を選ぶ。


「教室を、見ておきたいと思って」

「そうね。船場さんは私のクラスだから3組の教室だけど、分かる?」

「はい。あと、下駄箱は……」

「えっと、船場さんは34番だから――」


 内履きのない朱里はスリッパを履き、香里奈と別れて目的の教室に向かう。道中は誰ともすれ違わなかった。何度か遠目に見られたことはあったが、今の朱里の服装が運動部の練習着に似ているからか声を掛けられることもない。つくづく自由な校風に感謝している内に、2組の看板が書かれた教室の前に辿り着いた。

 足音を立てないよう、中をそっと覗く。

 見たことのある人物が席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を眺めていた。


「澪」


 空を切り取る窓に伸びた赤と青のマーブル。遠くで煌めく海にはオパールの光が散りばめられていた。わざと明かりの消された教室はステンドグラスの色合いに溶けて輪郭を揺らめかせ、見ている者の現実感を奪うと共に妖しい幻想世界へ誘う。

 その真ん中に澪は座っていた。彼女は自分が呼ばれたことに気付かず窓の外を見続けている。朱里が隣の席に近付いて初めて、澪はその存在に目を丸くした。


「あれ、朱里ちゃん……なんで」

「なんでって、来ちゃいけなかった?」

「そんなことない。ちょっと、びっくりしただけ」


 隣の席についた朱里は話題を探そうとするが、話を切り出す前に澪は夕焼けに奪われてしまった。幽美な光景から目を離せない少女のうなじに腐れた視線が落ちる。


「きれいだね、朱里ちゃん」

「……手、動いてないよ」

「うん。今日は、なんか全然進まない日」

「毎日この時間まで残ってるんだ」

「帰りたくなくて。親の期待が……ね」


 黄昏が心の底にしまっていた言葉を曝け出すように、澪は心ここに有らずの様子でつらつらと返事をする。やがて澪は力の抜けた身体を倒し、朱里の胸の中に受け止められる。


「ごめん。私、つかれちゃった」


 ヒグラシの鳴き声が響く。

 水彩画の景色の一部となった朱里は、人形のような澪を抱きしめた。


「朱里ちゃんは優しいね」

「そうかな」

「絶対そうだよ。そんな気がする」

「そう言われるとくすぐったいって……」


「朱里ちゃんは、今日何してたの?」

「寝てたよ。変な夢見た……あ」

「どんな夢?」

「別にいいじゃん、もう、忘れちゃったし」

「そっか。すぐ忘れちゃうもんね」

「そうだって……」


「……澪は、夏休みはどうする?」

「わかんない。多分勉強漬けだと思う」

「うわぁ、本当に熱心じゃん。よくやるね」

「朱里ちゃんは?」

「バイト、入れようと思ってる。お金カツカツだから」

「いいなぁ、私も朱里ちゃんとバイトしよっかな。勉強より楽しそう」

「親バレしたら家から追い出されるでしょ」

「そっかぁ……」


「澪は、夕焼けは、好き?」

「うん。朱里ちゃんと海で一緒に見てから、好きになった」

「……今から海に行く?」

「行きたいけど――」


「――今は、いいかな」

「澪……」

「でも、そろそろ帰らないと、先生に心配されちゃうかも」


 ぐらり。

 朱里の座る椅子が揺れる。二人の身体が九十度回転して叩きつけられる。


「わっ――」


 揉みくちゃになった状態のまま、澪は柔らかな身体にしがみつき続けていた。朱里は身体に食い込む細い指に悔恨の意を覚えると、夏に温まった黒髪を指で梳きながらもう片の手を背中に置く。

 そうして、澪の心が凪ぐまで、二人でじっと長い時間を待ち続けていた。

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