scene6: 船場家

 二人の勉強会を控えた前日、船場家のリビングには煩わしい蝉の鳴き声とワイドショーの音が響いていた。朱里は真っ昼間から騒がしい部屋を避けるように廊下を抜け、フローリングの床を軋ませないよう台所に忍び込む。シンクから上る腐水の臭いで眉間に皺が寄った。

 寝癖をそのままに、Tシャツとジャージを伸ばしながら屈み、冷蔵庫の前で背を丸める。冷凍炒飯を手に取った朱里はリビングの方を向いて少し思案した後、適当な深皿に開けて電子レンジに後を任せた。機械が唸り声を上げる横で飲み物とレンゲを揃えていると気の重い足音が近付いてくる。


「げ……」


 白髪の混ざった五十代の女性――眼鏡を掛け、どこか厳格な雰囲気を漂わせる彼女は電子レンジの前に立つ朱里の背中を見つけると、溜息一つの後に声を掛けた。


「おはよう、

「……おはよう」

「学校には行ってるの? 課題は?」

「どうにかなってるよ」


 朱里の表情は冴えない。

 表示板に映された、あと1分の残り時間がひどく長くて仕方なかった。


「お母さんは、明日髪染めに行くから」

「はいはい」

「いい、ひめは、やればできる子なのよ。やり方を知らないだけ――」

「大丈夫だから、その話はもういいって」

「大丈夫って、いつもそう言ってばかりじゃない」


 朱里のこめかみがぴくりと動く。


「家の中にいるだけじゃなくて、ちゃんと学校に行ってきたらどうなの?」

「だから、なんとかなってるって」

「どうもなってないじゃない。平日の昼間にのそのそやってきて……」

「それは――」


 電子レンジの音が鳴り、喉元まで上がった言葉が腹の底へ沈む。冷静さを取り戻した朱里は無気力に溜め息を吐くと、温まった器を取り出して逃げるように台所を出た。

 嫌味ったらしい説教を背中に受け止めながら朱里は階段を上り、そのまま自分の空間に閉じこもる。散らかりっぱなしの部屋で回転椅子に背を下ろし、レンゲで炒飯を頬張りながら苛立ちを鎮めようとしていた。


 船場家ではこの光景がよく見られる。

 学校に行かず、成績も崖っぷち――そう思われている朱里は母親とで会う度に何かしらの訓戒を垂れ流されていた。母の厳格な性格、娘の自由奔放な性格の相性悪さもあって、親子が打ち解ける機会は皆無に等しい。同じ屋根の下に住んでいながら全く別の世帯として暮らす、そのような状況がここ半年の間ずっと続いていたのだった。


 朱里は窓の方を見ながら、カーテンの先にある浅海家を思い描く。

 今頃、澪が学校の教室で真面目に座っているのは想像できていた。しばらく行っていない教室の風景を思い返してみたが、彼女以外のクラスメイトの顔には霧が掛かって誰も思い出せない。

 炒飯を口に放るが、真ん中の部分が冷たいままだ。書いてある時間の通りにやったはずだったが、それでは奥まで熱が通らなかったようだ。


「嫌なことばっかり……」


 重い闇が頭の中で膨れて骨を軋ませる。

 部屋に散らばる娯楽の数々はその一つさえも視界に入らない。半生の冷凍炒飯を腹に詰めて横になるが、カーテンの隙間から漏れる光が眩しくて仕方なかった。


「……う、ああ、やばい、来そうっ」


 こめかみが震え、息がしづらくなる。朱里は震える手でスマートフォンの動画アプリを開き、イヤホンを差して自分だけの世界に転がり込んだ。水の音と共に意識はとろけ、ベッドのスプリングが柔らかく軋む。


 狭い家を抜けた魂は深く底へ沈み、深青色の世界を漂い始めた。どこかから包み込む低い轟音に身を委ね、より深く、安心できる場所を求めて流れに身を任せる。

 瞼の裏には奇妙な顔をした魚の姿があった。暗がりを求め深く潜るクジラ、上下も分からぬ透明なクラゲを躱し、岩場のウミユリに手を振られながら更に奥を探る。そうして砂だらけの場所で身を休め、僅かに届く白揺れの光を見上げながら深く息を吐いた。

 こぽぽ、と口から泡が浮き上がる。身体を逆さに回して心地よく酔い乱れる。海底を蹴り、水の中を上り、魚の群れに混ざって渦を巻く。イルカの群れと共にあてのない水中夢想の旅に出る。


 ふと、その先に、意識無く流される少女の姿があった。

 同じ学校のセーラー服に、肩に掛からない黒髪のショート。朱里は仲間の元を離れてその子を、澪を抱き締めると、ありもしない陸地を探して両脚をばたつかせた。辺りに漂う木造船の欠片をかき分けながら――


 ――元の世界に還ってきた頃には、外の光が橙色に溶け始めていた。再生の終わった動画アプリを閉じ、イヤホンを外して起き上がる。カーテンの隙間から浅海家を垣間見るが、澪の部屋にはまだ明かりが灯っていない。

 先程の一幕を後から思い返した朱里はほんの僅か胸の鼓動を速めると、部屋の壁に向けていた全身鏡を回してから寝癖と皺の寄った服を手入れする。心細さを隠せない表情が鏡に映っていた。


 朱里は部屋を飛び出し、母の存在を意に介さぬまま外に出て自転車を転がした。

 視界の端に、一匹の透明なイルカが見えたような気がした。

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