scene5: 引力の話
コンビニエンスストアの他人事な店内放送で落ち着いた朱里は、ほっと一息つく澪の隣で何事もなくチキンを頬張っていた。その横で澪も店舗の外に設置されたベンチに二人並び、特に帰るわけでもなく白焼けした夜空を仰ぐ。
指先を僅かに油で濡らした朱里は包み紙を丸め、満足げに喉を鳴らす。
「澪って、火、付けたことある?」
「うん」
「それをじっと見てるとさ、なんか、引き込まれそうにならない?」
「……あんまり見ちゃダメって言われたよ」
「でも見入っちゃうでしょ? 私にとって海はそういうもの。知らないうちに近くまでやって来てて、気を抜いたら――うん、そんな感じ」
長く火を見続けたら悪いものに憑かれる、澪はかつてそんな説教をされたのを思い出す。幼かった澪はかつて、夏の暗い仏間で蝋燭に乗った炎の揺らぎを見つけると、得も言われぬ心地よさに任せるまま何分も座っていた。抜け殻のような彼女が次に気付いた時は母親が苛立っていたから、訳も分からずきょとんとしたのだった。
朱里は指の腹に残った油を舐めていた。彼女の買い食いに付き合っていた澪は肩に提げた大量のプリントを思い出すと、はっとしてすぐに布バッグごと差し出す。突然の行動で朱里は怪訝な顔に変わった。
「何これ」
「学校のプリント。ほら、全然来てなかったでしょ?」
「うわ、いらない」
「なんで? 試験近いのに」
「別にいいよ、いつもギリギリで通してるから」
「ギリギリじゃダメだよ! いつか、受験だってあるんだから……」
捲し立てられてもなお緊張感のない朱里は、ここまで必死に説得しようと試みてきた澪の余裕ない顔つきを見て興味深そうに唸っていた。そして渋々バッグを受け取って中のプリントを見ると、そこにあった問題を見て仕方なさそうに笑う。
「で、私は何をしたらいいの? 一人でやればいい?」
「それは……じゃあ、私が教えるから!」
「どこで」
「学校の――ううん、学校じゃダメ……えっと、そうだ、図書館!」
町が運営する中規模の図書館、そこには学習用スペースがあり、時間で利用できる個室も用意されていた。澪の提案に朱里は渋い顔を浮かべ、根負けした様子で手に持っていたプリントをヒラヒラ揺らして風に濡らす。
「わかったよ。澪がそこまで言ってくれるなら、断れないって」
ようやく話が通ったことに安堵した澪は、知らぬ間に二人の約束を取り付けていた自分に後から気付いて心の中をひりつかせる。朱里という人物に向かう謎の力が、澪の意識を常に彼女に向け続けて止まなかった。
香里奈からの頼まれ事を終えてほっとしているところへ、朱里が横からスマートフォンの画面を見せる。
「はい」
「えっ?」
「え、じゃないよ。友達登録。それとも嫌?」
「嫌じゃない、ちょっと待ってて」
慌てて澪が対応し、二人の間に見えない一つの繋がりが生まれた。朱里、の二文字だけが書かれたプロフィール欄には海の写真が背景として使われている。八浦の町から撮った景色だ。
「朱里ちゃん、そろそろ戻らなくちゃ」
「あー、澪はそうだね。私は歩くからいいよ、一人で帰って」
澪は子供のように寂しそうな顔を浮かべていたが――万が一のことを考えると、今は朱里の提案に従うしかなかった。
家に戻ってくると、リビングで澪の父親が缶ビールを空けながら真夜中のニュースに物言いを付けていた。声を掛けられないようそっと廊下を抜け、階段を上ってからルームウェアに着替えてベッドへ倒れ込む。
すると、先程連絡先を交換した朱里から二行のメッセージが届いていた。
『土曜日、図書館集合ね』
『自転車で来ること』
僅かに身を起こし、窓を塞ぐカーテンの隙間に頭を突っ込んで船場家を見た。今の時間になっても朱里の部屋は明るくなっていた。そこへ、あの時と同じように脚立を立てて上っていく人影があった。
澪は大きな欠伸をすると頭を引っ込め、うつ伏せに戻ってストンと寝入る。
その日彼女は、蝋燭の赤い炎をぼんやり眺める夢を見た。
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