scene4: 衝動に駆られて

 温い風を切って曲がり坂道を下る。澪を乗せた自転車は重みに従って加速し、線路沿いの一本道に入って鋸状の海岸線と併走する。橙色に焼けた空の下、普段より重い荷物を背負った澪は処刑の迫る罪人のような悲壮感漂う顔をしていた。

 帰り際にまたあの影を探して浜辺を探すも、昨日の少女は海の見せた一時の幻か、澪の求めるものは見つからない。結局、日が落ちるまで海辺で佇んでから帰る。


 帰宅後は普段通りに湯を張って肩まで浸かる。それでも頭を覆う深い霧は晴れない。昨夜の朱里の身体を見てからは鏡を見るのも億劫になっていた。澪は浴槽の中で三角座りすると今の境遇を呪うように口から泡を吐く。

 こちらがこれだけ気を揉んでいるのに、朱里は今も爛漫な暮らしをしているのか。原因を押しつけようとも真面目な澪にはそれができない。心労のたたった彼女はその日、夕食の野菜炒めを半分残して部屋のベッドに倒れることとなった。


「なんであんな返事しちゃったんだろう、ばかぁ……」


 時計の針を逆回しにして放課後まで戻りたい――顔を枕に伏し、シーツの端を掴みながら悔し混じりの呻き声を上げる。

 学習机の上に置いたままの布バッグが部屋全体に重苦しい気を放っていた。明日、事情を話して机の中に戻そうかと何度も考える。香里奈の困り顔と朱里の嫌な笑みが澪の脳裏を何度も巡る。


 そこへ、記憶の中の紙飛行機が一機、あの悪魔のような表情と共に蘇った。何かに気が付いた澪は顔を上げてアイデアをまとめると、昨日、一方的に飛ばされた例の紙飛行機を机の引き出しから引っ張り出す。

 カーテンの隙間から船場家を窺うと、朱里の部屋にはまだ明かりがついていた。

 部屋にあった厚紙を引っ張りだし、読みやすい字でメッセージを書く。次に一番飛ぶ折り方をスマートフォンで調べ、その通りに作り上げた。


「朱里ちゃんが気付いてくれますように――」


 切迫した祈りの籠った澪の紙飛行機。ベランダへ出て、夜風の切れ目に飛ばす。

 風を切り、真っ直ぐに抜けていく――それは朱里の部屋の窓に当たって音を立てた。じっと息を潜めて見守っていると目当ての部屋のカーテンが開き、白Tシャツに黒ジャージの女が姿を現した。朱里だ。少し驚いた様子の彼女はベランダに落ちていた紙飛行機を拾って中の文言を読むと、澪に向かって家の外へ出るよう指で示した。


 既に夜の九時を回っている。それでも澪は頷き、朱里と同じような格好――かつてランニングを始めるも数日でお蔵入りとなったもの――を着て部屋を出る。リビングで夫の帰りを待っていた母が彼女を呼び止めた。


「澪、どこかに行くの?」

「えっと、明日どうしても使いたい物があって、コンビニに行ってくる」

「そう。夜は気をつけなさいよ」

「それじゃ――あ、忘れ物」


 部屋に戻った澪は例の布バッグを肩に掛け、母に深く追及される前に家を飛び出す。


 見下川に架かる小さな橋。その近くの白く冷たい電灯の下、電柱に寄りかかった朱里は腕組みをして待っていた。改めて間近で見ると、澪よりも少し背の高い彼女は同じ着こなしでも随分大人びて映る。


「朱里ちゃん、コンビニの方に行こう」

「賛成。乗せてってよ」

「え……うん、分かった……」


 両家の目の前とも呼べる橋の近くで長居はできない。当たり前のように二人乗りを要求する朱里に押され、澪は彼女を後ろに乗せてからペダルに足を掛けた。


 真昼より気温は優しいが、夜の妙に湿気た風が二人の身体を生ぬるく撫でていく。住宅街を抜け、海辺を走る四車線道路へ出た。夜が更けたせいか車は見当たらない。遠くで寂しく輝く緑色のコンビニエンスストアを除いては電灯がまばらに点在するのみで、空一面に散らされた星の瞬きがよく見えていた。

 一面から夏の大三角を見つけた朱里は溜め息を吐く。同じ年と思えない身体と声色に、ハンドルを握る澪は落ち着かない。


「澪って、変わってるね」

「朱里ちゃんには言われたくないかも……」

「なあに、私のことをよく知ってるの?」

「ううん、これから」


 国道沿いのコンビニ脇の目立たないところに自転車を止める。自転車でまた少し下った先で口を開ける冥海から、二人を誘う静かな満ち引きの音が繰り返されていた。


 朱里は、その心地よい音に引っ張られるように海の方を見ている。自転車に鍵を掛けた澪が気が付いた時、彼女はふらふら揺れて海への道に入ろうとしていた。両腕を垂らしながら歩を進める後ろ姿に生気は感じられない。


「……どうしたの?」


 返事がないまま、朱里は浜へ続く階段に一歩足を踏み入れる。まるで物の怪から取り憑かれたように――澪は慌てて朱里の手首を掴むと少し強引に引っ張ってコンビニの方へ連れ戻す。

 我に返った様子の彼女は、すっかり青ざめた澪を見て自嘲混じりに笑った。


「ごめん、ちょっと危なかった」

「どうして、そんな――」

「なんかさ、呼ばれてる気がするんだよね」


 波の囁きに合わせて揺れる朱里は不安定で、地に足を付けて立つ一人の人間にしてはあまりに非力だった。意識朦朧の彼女は澪に寄りかかり、真正面から抱き留めてもらってやっと一つの場所に収まる。


「波の音を聞いたら、帰りたくなるんだ。全部投げ出して、海に潜って、沈んで溶けて無くなったら……想像するだけで訳わかんなくなって、気持ちよくなって」


 朱里の声はすっかり陶酔に染まっていた。澪は身体を締め付けられる中、これが夢か現実か区別できずに目を白黒させる。耳元で「やばい……」と艶の入った声に囁かれ、小柄な身体は行灯のように暖まった。

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