scene3: 宿題

 深緑に繁茂する白峰連山しらみねれんざんを背に二人の通う八浦高校は建っている。見晴らしの良い場所を選んで造られたため、天候が許せば、教室やグラウンドからサファイアのような海を見渡せた。通学のために半螺旋の坂を上らなければならなかったが、生徒からの評価は良好であった。


 夏の長期休暇は目前に迫っていたが、その直前に定期試験という壁が立ちはだかる。放課後を迎えた教室は浮き足立った学生の声で一つ盛りを迎えた後、試験勉強という現実を受け止める者だけの空間に変わった。

 部活に所属していない澪は、いつも一人になるまで教室に残っていた。スマートフォンに親からの言いつけが来ない限りは参考書を横に黙々と演習問題を捌いていく。遠くから野球部の声が飛んできても、吹奏楽部の音出しが響いても、彼女は顔色一つ変えず手を動かし、学生としての義務を果たしていた。


「浅海さん、今日も残っているの?」

みなと先生」


 線分の内分に区切りを付けた澪が顔を上げると、教室の入口に白ブラウスの女教師が立っていた。天然茶髪をハーフアップに整えた麗人は澪の前で手元を覗き込む。

 先生、と呼ばれたこの女性は、下の名前を香里奈かりなと言った。

 それこそ先刻まで同じ教室でホームルームをしていた彼女は、澪を始めとした多くの生徒から慕われる容貌と言動を併せ持つ。時間で見回りする中、澪の残る教室を訪れた際に会話するのが殆ど日課となっていた。


「家だと捗らなくて」

「試験が近いからね。浅海さんは毎日頑張ってるから結果出せるよ」

「だと良いんですけど……」

「自信持って。先生も応援してるから」


 香里奈は胸元でぐっと両拳を握って励ます。その姿に澪の緊張も抜けていた。ふと視線を上げた時、澪は教室の隅の机に大量のプリントが詰まっているのを見つける。そう言えば“彼女"の席はここだった、と今更のように思い出していた。

 毎日真面目に通い続けた中、あの海がよく見える席に、座るべき人が座っていた試しはない。休み時間にクラスメイトの集団の誰かが腰掛けにし、荷物の多い教師が物置きに使い――


「船場さんは今日も来なかったわね。二年生になってから三ヶ月も経つのに」

「去年、一応進級はしたんですよね」

「そうね。私は国語担当だけど、彼女の成績はいつもギリギリ……あっ、ごめんなさい、他の人にこういうこと言っちゃいけないの。聞かなかったことにしてくれる?」

「わかってます」


 まとまりなく散らかった部屋が澪の脳裏に蘇る。頭の中の朱里はその中で好き放題に転がっていた。ベッドの上で漫画を読んだり、思い至ってギターを弾いてみたり……しばらく想像の中で遊んでみても、彼女が勉強机の前に座ることはなく、出された課題を前にしかめっ面することもなかった。

 定期試験の日も来ないのだろうか。関係ない他人の人生なのに澪は要らぬ想像をしてしまう。頭の隅に勝手に上がった朱里は自由に寛いで帰ろうとしない。


「ところで浅海さん、船場さんの自宅って分かる?」

「はい」


 反射的に答えた後、澪はこの一言が失敗だったことに気付く。


「それじゃあ、申し訳ないけど、中のプリントを届けるのをお願いしていい?」

「あ、はい……」


 地元の高校、として知られる八浦高校には小・中学校からそのまま上がった者も多く、彼らの親は浅海家と船場家の間柄をよく耳にしている。だが、今まさに通っている高校の教師らはそれを知らない。例え醜聞を好む生徒が面白可笑しく伝えたとしても、学生生活と家庭の繋がりが比較的希薄である高校において両家の対立を見かけることは殆どなく、その深刻さは分かってもらえなかった。

 ここ最近の“喧嘩”が過去の物になりつつも、澪が船場家の門を叩くのが憚られることに変わりはない。ましてや、プリントを届けることが「借りを作る」として受け取って貰えない不安もあった。


「その――」

「湊先生、明日のことで」

「ああ、そうでした」


 澪は、様々な思考を巡らせた後に即諾の撤回を試みるが、折り悪くやって来た男性教師が香里奈を呼んでしまう。じゃあよろしくね、と罪のない笑顔を向けられた澪は、教室を去っていく彼女を強張った顔で見送るしかなかった。

 八浦の町は夕焼けを被っていた。

 日没が近い中、表情を失った澪は問題児の机の中を見て途方に暮れる。およそ二週間分だ。澪のスクールバッグの隅で布製のバッグが丸まっていたが、肝心の届ける方法を思い付けずに細い声になる。


「どうしよう……」


 からすの鳴き声が響く。

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