scene2: 紙飛行機爆弾
「まったく、いい年して海遊びしないの。野菜もこんなに砂だらけにして」
「ごめんなさい」
「それで、勉強は大丈夫なの? 夏休み前に試験あるって言ってたよね」
「頑張ってる」
「お父さんも澪に期待してるんだから。早く着替えてきなさい」
帰宅した澪は台所で母から垂らされる小言に居たたまれず、話題の切れ目を探し出して脱衣所へ一人逃れた。海臭くなったスカートと黒靴下、半袖の汗ばんだセーラー服と下着類を籠へ放って自由になると、空の浴槽でシャワーのレバーを捻る。
曇った鏡には、憔悴しきった少女の像が映っていた。
冷たくなった脚を湯で温める。次に肩から流し、腕を経て指先へ辿り着く。澪の頭に、中指のペンだこを
硬く膨らんだ澪のそれは、本人にとって気分の良いものではない。テレビや広告で女性の綺麗な指先がアップに映される度に彼女は視線を落としていた。勉学と家事手伝いの労を刷り込まれた手は、同年代のそれと比べるとくたびれて見える。
肩で揃えた黒髪と特徴に乏しい身体、幸の薄い顔を綺麗にしてシャワーを終え、ドライヤーで髪を乾かす。そのまま急ぐように着替え、二階の自室へ駆け込んだ。
「『わびし』は――『がっかりする』と『つらい』だよね。よし……」
隅の丸まった古文単語のまとめ本を捲る。一つ一つを声に出しながら、澪はサンドピンクのルームウェア姿でベッドに寝転がっていた。外は既に暗い。日課の復唱を終えた後は目を閉じて夕食を待つが、普段の時刻になっても呼び声はない。
買い物の帰りが遅かったこともあり、準備はまだ済んでいないようだった。不意に空いた時間で澪は窓を塞ぐカーテン――これは小学生の時からあるものだ――を開けてみる。確かここから
アクリルの厚布をずらすと、見下川の向かいに例の家が見えた。一階には明かりがついている。そして、船場家の敷地の茂みから見覚えのある影が現れた。
腰まで髪を伸ばしていたその人は間違いなく朱里であった。意外な場所から出てきた彼女は茂みから脚立を取り出すと、端を二階のベランダにあてがってから上り始める。その後、慣れた手つきで上から脚立を回収すると目立たない場所に隠し、鍵の開いていた窓から部屋へ入っていった。
朱里の入った部屋にもカーテンはあったが、彼女はそれを開け放つと明かりを付ける。そこが彼女の根城だった。気合いの入った学習机に積まれた数々の――漫画本とゴシップ誌の山。三段ボックスを埋め尽くす、どこの国の物かも分からない木彫りの彫像。地面に置いたままの七輪に、スタンドで埃を被ったフェンダー・テレキャスター、澪には縁のないデスクトップパソコンの黒箱が統一感無く散らばっている。
朱里は、そんな場所の真ん中で堂々とセーラー服を脱ぎ始める。唖然としていると、階下で母親が澪を呼んだ。返事をしてからもう一度向かいの部屋を覗くと、上下黒の下着に身を包んだ朱里が、回転椅子に座りながら澪の方を凝視していた。
ぞくり、と澪の背筋に冷たいものが走る。
平坦な澪とはまるで正反対の朱里は口の端を上げ、足元に散らばっていたチラシの裏にマジックで何かを書いて紙飛行機を作ると、そのまま浅海家のベランダ目がけて一直線に飛ばしてきた。夜風に流される前に窓の隙間から細い腕を伸ばして回収し、身体中に緊張を覚えながらそっと開く。
水着を着た綺麗な体型の女性モデルが並ぶ広告の裏に、このように書いてあった。
『 変 態 』
たちまち澪は頬を赤く染めて罪悪感に目を瞑る。すっかり萎縮した彼女が問題の人物ともう一度目を合わせようとするも、朱里の部屋のカーテンは既に閉められていた。ご飯に呼ばれていたことを思い出した彼女は紙飛行機を折り直して机の引き出しへ放り込むが、今もあの鮮烈な笑みを向けられている気がしてならなかった。
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