scene20: どうしてこんなに

 試験の後半戦となる二日目は、多くの生徒にとって普段通り苦しいものとなった。しかし、教室内には笑顔を崩さない例外もいる。いつも通り窓辺で消しゴムを擦っている朱里と、テスト前より少し肌が綺麗になった澪の二人だ。特に澪は、一日目の死んだように痩せた顔とは真反対の表情である。

 八浦町には灰色の雲が被っていた。濃淡の違う絵の具を雑に塗りたくった空の下、一人一人の雰囲気も普段の快晴の日より暗い。そんな中でも澪の見るものははっきりと色を保ち、キラキラと輝くことさえもあった。


「はい、時間です。筆記用具を机の上に置いてください」


 最後の試験の終了が告げられる。担当教師が解答用紙を回収し、試験の終わりを宣言すると教室がどっと賑やかになった。重苦しい圧力から解放された者たちが土日の――ひいては夏休みの予定を話す中、少し疲れの見える香里奈が入ってきてホームルームを始める。

 腹の中を回る軽やかさにつられないよう口を結んだまま、朱里の方を見てみた。彼女は熱い視線に気が付くと、ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべて見つめ返す。澪はその場で足踏みしたくなる衝動をこらえる。


「皆さん、試験が終わっても油断しないでくださいね。まだ来週に少し登校日が残ってますから……舞い上がってを起こさないように!」


 香里奈の訓戒が込められたホームルームが終わると、まるで先程の金言を聞いてなかったように学生らが立ち上がって教室を出て行く。他のクラスの放課後を待っている者もいればグループで早々に離脱する者もおり……ぱらぱらと人が残っている中、澪は親から送られてきたメッセージを見て肩をこわばらせている。

 予定通り、家を出て泊まりがけの用事へ向かったようだ。正真正銘、澪一人だけの留守番……少なくとも、彼女の両親はそう考えている。


「なーにニヤニヤしてんの」

「してないよっ」

「今日、着替えとか澪の家に持って行くから。いいよね?」


 二人で夜を過ごす、明言こそしていないが二人の考えていることは殆ど同じだ。澪は朱里の質問に頷いた後、首がほんのり熱くなっていくのを自覚すると長く息を吐いて冷静さをたぐり寄せる。


「母さんもこの時間はテレビ見てるし……今日は、一緒に帰ろっか」

「うん、一緒に帰ろう!」


 高くなった声で返事する澪。その様子に朱里は暖かな笑みをこぼす。

 二人は足並みを揃えて校門を出る。自転車を横に並べ、同じ潮風を切って半螺旋の坂を下っていった。それだけで楽しくなった澪は雲の隙間から漏れる日差しにも負けない笑顔を隠さず、姉のように穏やかに見守る朱里の前を行って彼女を先導する。


 毎日の通学路は決して短くはなかったが、今日この時に限ってはその時間感覚を二人で半分に分けていたようだ。マンホールの蓋に細いタイヤを四本擦らせ、両家を隔てる橋まで帰ってくる。

 普段ならとても二人ではいられない場所だが……澪は、朱里の家の前で慣れない感覚に胸の鼓動を早める。


「じゃあ、私は荷物まとめてくるね。すぐ連絡するから」

「うん。私も着替えてるね」


 朱里と別れた澪はすぐに浅海家へ戻ると自室へ飛び込み、セーラー服とスカートをベッドの上に放り投げた。そのままクローゼットから海色のTシャツとスカートを出して着替えようとした瞬間、下の引き出しに下着類が入っていたことを思い出した。

 思いつきに任せて引っ張ってみると、普段学校につけていく無難なデザインの物の他に、可愛い花柄の模様の物やフリルのついている物が出てくる。


 澪は一分ほど固まったまま、朱里が来た後のことを考えていた。

 そして、半開きになった口から湿った息を漏らしながら、自分が今付けている学校用のブラとパンツを脱いだ。今度は手持ちの中で一番かわいい物――白のフリルでお姫様を意識した物へ付け替える。

 水色のTシャツと青色のスカート。以前朱里と勉強会をした時の服装に着替えた澪は脱いだものをまとめて洗濯籠へ放る。


「どうしよう、朱里ちゃん来たら何しよう、夜ご飯も作らなきゃ……」


 考えるべきことは沢山ある。それら一つ一つが熱気球のように膨らんで地に足着けられなくなる。まるで別人になったように澪はベッドへ倒れ込み、枕に顔を埋めながら精一杯の声で唸って力を逃がしていた。

 それを三回。ようやく、待ち望んでいた通知がスマートフォンに入ってきた。


『今行くね すぐ入るから鍵開けといて』

『うん!』


 頭だけ起こしていた澪はすぐさまベッドから出ると階段を降りて玄関へ出る。そのまま閉めていた鍵を開けて朱里が来るのを待つ。

 目一杯に引き延ばされた十秒を耐え、寂しさが胸から溢れそうになった頃、玄関のドアが開けられる。中に入ってきた人は後ろ手に鍵を閉めた後、背負ってきたリュックサックを下ろして一息ついた。

 白いTシャツと黒ジャージ姿の朱里――彼女と目が合う。来た時に何を言おうか、どう迎えようかが全部吹き飛んだ澪は、ただの一言も無いまま鬼灯の顔を伏した。

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