scene44: 斜陽
窓の外では叩き付けるような雨が降っている。テーブルの上には空になったカップ麺が二個乗っていた。その横には、朱里の用意したお粥が空になったものが並んでいる。いずれも、既に熱は引いて冷たくなっていた。
「渚ちゃん、どうしよう……」
「大丈夫だよ、ひめちゃん。天才が二人揃えばアイデアの一つくらい出る。だから、まずは深呼吸をして落ち着くんだ」
「澪は、すぐに良くなりますか」
「症状はそこまで重篤じゃない。話を聞くに、おそらくストレスが原因だ。これまで相当色んなことを我慢してきて、それが一気に解放されたから、安心したんだよ」
澪は濡れタオルを額に乗せたまま眠りについている。それを確認した朱里は手の甲で涙を拭って、澪が気付くまでの間、少しでも早く目元の涙腫れが引いて元に戻ることを祈っていた。
「手段はどうであれ、今の彼女は救われてると思うぞ。よくやったじゃないか」
「……ありがとう、ございます」
「あー、ひめちゃんに丁寧語喋られると落ち着かねえな、昔の自分を見ているようでゾワゾワする」
「何言ってるの。渚ちゃんも、結構ワルだったって話じゃん」
「まあ、ね」
沈黙は外の雨音が埋めてくれる。
渚は、朱里の耳元でそっと囁いた。
「今でも、生徒に手を出すくらいにはワルだよ」
「ガチじゃん……」
「否定できねぇな。さっさと見切り付けないと香里奈に殺される」
「じゃあいい加減、湊先生にアタックしなよ。取られちゃう」
「……分かってるよ、そんなの」
渚は朱里を抱きながら口づけを一つ贈る。理想の母親に抱かれたような朱里は頬を蕩けさせ、より深く嵌り込むように渚の方へもたれかかっていく。罪悪感は残っているのか、視線は澪の方を向いたままだった。
このまま澪の目が覚めたらどうなるんだろう……朱里の心が焼ける。
「私は大丈夫だ。ひめちゃんは、彼女のことだけを考えてあげな」
「でも、渚ちゃんにはお世話になったよ。学校に馴染めない私に、登校する理由をくれて、いざという時に逃げる場所まで貰って……」
「無理して恩を返そうとするな。お前は今、それどころじゃねえだろ」
「……うん」
「数日程度なら、こんな感じでお前たちを匿ってやることはできる。だがな、この国には未成年者誘拐罪ってワケわかんねぇ法律があってな。本当なら、ずっと……」
「いいよ。大丈夫、私たちのことは、私たちで決着を付ける」
朱里は渚の腕の中から離れ、両頬を手のひらで叩いて現実と向き合う覚悟を付ける。そして、これまでの澪との思い出を渚へ語り始めた。海へ身を投げようとした時に出会ったこと、隣人だけど親同士はひどく仲が悪くて遊べなかったこと、お互いに親から押しつけられているものがあって苦しんでいたこと、親友になって更にその先へ行ったこと、澪を救うために二人で八浦町を出て行ったこと――どれもが、朱里にとっては今生きる理由を支えるかけがえのない思い出だった。
「大分無茶苦茶やったじゃねえか。お前、最後はどうするんだ」
「最後? 最後――」
朱里の言葉がつっかえて、目が白黒する。
その様子を見た渚は顔を引きつらせ、湧き上がる言葉を静かに並べ立てる。
「家出ってのは普通、帰る場所があるから家出なんだ。これだけ親元を離れていたら、普通に帰ってきてまた同じ生活、なんて見込みはねえぞ。お前らの家のことだ、もう二度と一緒に遊べないように外へ出されなくなることだってある」
「……あはは」
「……まさか、お前ら」
渚が朱里の胸ぐらを掴む。少女の目に光は宿っていなかった。これまでの経験が渚を総毛立たさせ、今の状況がまずいものであることを経験則的に示していた。
朱里は、ほんの僅かだけ秘めていた胸の内の希望を、目の前の女性に託す。
「渚ちゃん」
「天才な私のお願い、聞いてくれる?」
「前みたいに、渚ちゃんのこと、良くしてあげるから……」
その頃、浅海家では、澪のベッドの掛け布団から大量の学習参考書が発見されていた頃だった。
「あの、警察ですか」
「娘がいないんです」
「多分、家出だと思います……」
「そんなことする子じゃなかったのに」
「きっと、悪い人に唆されたんです」
「お願いします、探してください」
「お願いします……」
一方の船場家も、朱里がいなくなってからは静かな日々が続いていた。
「ひめ?」
「ひめ、いないの?」
「ひめ! 出てきなさい!」
「……靴は、ない」
「……ひめ?」
雨は降り続いている。
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