scene43: 憔悴

 鯖之山町に自転車が二台入った。山の町境を越えた二人は下り坂を一気に駆け下りて市街地へ向かう。空は東の方こそ晴れていたが、西には灰色の雲が集まって不穏な色を醸し出していた。

 不安な顔の澪は朱里から置いていかれないようにペダルを押し込む。海から離れて住宅街に入ると、一角にある公園で知らない子どもたちが集まってゲーム機を持ち込んでいた。自分にもあんな世界が待っていたのだろうか、と溜め息をつく。


「そこの角を曲がって――よし、車はない」

「朱里ちゃん?」

「少しだけ、静かにしてて」


 辿り着いたのは築30年のアパート。目立たないところに自転車を隠したあと、朱里は昼にしては怪しいそろそろとした歩き方で2階へ向かう。

 部屋番号のプレートは錆が侵食していた。朱里はどこからともなく鍵を取り出すと、鍵のかかっていた部屋の錠穴へ差し込んで回す。カチャリ、と入った音がした。


 部屋の中は、生活感こそ残っているが人の姿はない。玄関で靴を脱いでお邪魔すると、台所の脇に次に捨てる分のごみ袋が積まれている。その横には飲み干された日本酒の瓶が三本並んで酒の香りを漂わせていた。

 部屋の主は随分とずぼらのようで、クローゼット近くの段ボールには女物の下着が雑然と放り込まれている。誰とも知らぬ者のそれを見て澪がまた落ち込んだ。長旅を終えた朱里はリュックサックを置くと勝手にベッドの上で寝転んで気持ちよさそうな息を吐く。


「もう休んでいいよ。とりあえず、しばらくはここで」

「誰の家?」

「私の知り合いの家。この時間は仕事してるはず」

「……じゃあ、私も」


 張り詰めた緊張感から解放された朱里はようやく落ち着けているようだった。澪はその隣で寝転び、自分のために尽くしてくれた彼女を労うように顔を寄せる。朱里は片手で引き寄せると、澪の心からの恭順を示す口付けを貰いながら満足そうに笑ってふしだらな手を伸ばす。さながら、爛れに爛れた主人と召使いのようであった。


「朱里ちゃん、おつかれ……んっ」

「澪、ありがと」

「んんっ、ちゅ、ん……」


 心地よい感覚の中で朱里の意識が沈み、安らかな寝息を立て始めた。一人残された澪は寂しい思いを腹の底に沈めながら、彼女が少しでも休めるようにと布団をかけ直してあげる。

 家出をしてから、随分と疲れてしまっていた。これから先のことを考えるのも今は億劫になっている。しばらくはこの部屋を借りて休める、そう思いながら澪も朱里の手を握りながら目を閉じた。




 ……しばらく眠っているうちに、昼をとうに過ぎてしまっていた。

 先に身体を起こしたのは朱里だ。いつもの癖で早く目が覚めてしまった彼女は時計を確認する。家主が帰ってくるだろう時間まであと一時間といったところだった。


「うわ、寝過ぎた……ご飯どうしよう」


 少し休んで冷蔵庫の中の物を拝借する予定だった……狂ってしまったプランを頭の中で再構築していると、隣から澪の苦しそうな声が聞こえてくる。振り向くと、苦悶の表情を浮かべた澪がひどくうなされているようだった。

 顔が赤い。触れると、頬と額が尋常ではない熱を持っている。


「澪?」

「う……」


 全てを察した朱里は奥歯を噛みしめながら、精一杯の笑顔を作って澪へ顔を寄せる。意識はあるようだ。朱里が優しく手を握ると、澪は薄目で視線を合わせた。


「ごめんね、朱里ちゃん」

「大丈夫、無理して喋らないで」

「家の人、帰ってきちゃうよ……」

「私が話を付ける。だから、澪は休んでて」

「でも……」

「私を信じて、澪」


 言葉を聞いた澪は何も言わなくなった。布団を自分の手で剥ぎ、僅かだけ汗で湿ったTシャツをパタパタと扇ぐ。隙間からは白く綺麗なお腹が見えた。

 時間は無い。朱里は急いで台所に向かって炊飯器のフタを開けた。米は二合ほど残っている。棚にあるものを漁るとお茶漬けの素が見つかった。朱里は手合いの物で即席の冷茶漬けを作って澪の待つベッドへ持って行った。


 そして十六時を過ぎる。腹ごしらえを終えた澪が濡れタオルを額に乗せて安息の眠りについた頃、朱里は一仕事終わった後の立ち休憩をしていた。

 やるべきことはやった。そう自分に言い聞かせていると、いよいよ玄関のドアの鍵が開けられる。諦めの表情を作っている朱里のもとへ、一人の女性が姿を現した。


「ただいま……あ?」


 黒いTシャツと足の長いパンツを履いた大人の女性――玄関で呆然と立っていたのは、八浦高校の保険医「青凪 渚」だった。朱里は渚が入るや否や表情を曇らせ、まだ荷物を持ったままの彼女の胸へと飛び込んでいく。


「ひめちゃん!? どうしていきなり」

「渚ちゃん」


 背中へ回された腕がきつく締め付けられる。朱里は渚の頬へキスを一つすると、涙で籠った声を腹の底から必死の思いで絞り出した。


「私と澪を、助けて……前みたいに、渚ちゃんの言うこと、何でも聞くから……!」

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