scene39: 秒を読む
夏休みに入って三日が経った。
勉強机の上には夏休みの課題と参考書が積まれ、その一角で澪がシャープペンシルを走らせている。時に眉間で皺を作りながら、課された問題を慣れたように捌いていく。
だが、突然その手が動きを止める。
「うっ……」
こめかみに指を当てながら澪が呻いた。
鋭い痛み。一度や二度ではない。
(やっぱり、集中できなくなってる……)
イメージしていたのは朱里と出会う前の自分。何もなかった、クラスの陰で密かに過ごす"優等生"だった頃の姿。あの時のように熱を入れていたものへ前を向くも、彼女がもたらした不可逆的変化はそれを許さなかった。
視線を横へずらすと、そこには引くほど高く積まれた参考書が残っている。かつての澪だったものと、澪の母親が課した重い足枷だった。
少し前の自分はずっと勉強していられたじゃないか。きっと、勉強合宿も終わった後は行ってよかったと思えるはずだ。そう暗示をかけるも、澪の手はぴくりとも動かない。かえって、澪の帰りを待っているだろう人物の顔が思い浮かぶだけだ。
「朱里ちゃん……」
コンビニで別れてから数日、澪は彼女と会うどころか話もしていない。
座っていられなくなった澪は夏の装いのままベッドへ倒れ込む。そしてサメのぬいぐるみを抱きながら、曲げた人差し指を口に含んでしゃぶりはじめた。脚をきつく締め、目を閉じながら甘い妄想に入り浸る。
勉強机に座っている澪を誘うのはいつも、彼女の頭の中にだけ存在する甘えたがりの朱里だった。一緒に昼寝をしたい、という誘惑は集中していたはずの澪を何度も振り向かせ、ベッドの上でただ一人転がりながら都合のいい幻に溺れるだけの存在まで堕としてしまう。
「朱里ちゃん、ダメだって……」
自然と入る力が身体の中で行き場を無くし、澪は自分でも抑えきれないようにベッドの上でぴくりとわずかに跳ねた。指の関節を甘噛みしながら、澪は熱い息でぬいぐるみの表をほんの少しだけ湿らせる。
朱里と会っていない日はいつもこうだった。誰かに抱きしめて欲しくて仕方ない身体を布団で巻き付けながら、自分の指を欲しいものの代わりにしてその場しのぎの満足を得ようとする。でもそんなことができるわけもなく、肩の上に募る痺れた心地が焦らされた澪を妄想へ縛り付ける。
「朱里、ちゃ……」
依存性のある快楽が澪の頭を白く焼き付けていく。混濁した意識で大好きな人の名前を呼んでいるうち、澪は夏休みの貴重な時間を夢の中で過ごすことになった。
秘密の恋人に名前を呼ばれていることなどつゆ知らず、川を挟んだ向かいの船場家では、朱里がPCの前に座って画面を覗き込んでいた。人差し指を使って「八浦町 家出スポット」と検索をかけるも、結果に並ぶのはろくに家出のことも考えたことない人が書いた量産型のアフィリエイト記事だけだった。
ずっと、澪と二人でいたい――そんな我が儘な気持ちに応えてくれるような場所があるわけもない。諦めて隣町のネットカフェやホテルを調べ、使えそうな所は手元のメモに片っ端から書き殴っていく。
(家出したとしても、私たちが行くところなんて……)
今が夏休みとは言え、二度と家に戻ってこないと考えれば高校も中退することになる。その学歴で働けるところがあるかも疑問だった。家のストレスから逃れるために家出したのに、別のストレスに押しつぶされてしまっては、例え大好きな人が傍に居たとしても楽なものではない。
脳裏には、コンビニの前で今にも泣き出しそうにすがりついてきた澪の姿がはっきりと焼き付いていた。マウスに置かれた手が震える。今の朱里は、澪の分の人生も背中に背負っていたのだ。
(私たち、どうなるんだろう)
家出の準備をしているというのに、妙にこの住みづらい家が恋しくなって仕方ない。でも、もしここで踏みとどまったとしても、また数日したら辛くなって苦しむことになるのは目に見えている。
澪の勉強合宿も近い。母親から何を言われるかも分からない。合宿期間中に朱里が完全な監視下に入ってしまった場合、澪と二度と会えないなんてこともあり得る。
(……大丈夫、なんとかなる、いつものように)
見通した先がどんなに暗いものであったとしても、朱里はそれを腹の中にしまって笑顔を作る。死んだも同然だった自分を拾ってくれた"彼女"のために、もうひと踏ん張りと伸びを一つする。
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