scene38: 二人の話

『青凪さん、いい加減授業に戻ってください! 先生が待ってますよ!』

『いーんだよ別に。そうだ香里奈、お前も一緒に屋上で寝ろよ。スッとするぞ』


 澪たちが知っている空と同じ色の空が、その時も果てしなく広がっていた。天気の女神が微笑む中、八浦高校の屋上には夏のセーラー服を着た女子高生が二人立っている。そのうちの一人――髪を腰まで雑に伸ばした彼女は、物陰に隠していた耐水マットを引っ張り出して広げ始めていた。屋上の隅には飲み終えたポカリスエットの缶が置かれ、中には先程まで熱を持っていた煙草の吸殻が落ちていた。


『青凪さん!』

『うるせえな、こっちは昨日夜通し漫画読んでて眠いんだよ』

『関係ありません、授業に出てください!』


 名前を叫ばれた渚はいかにも鬱陶しそうな顔でマットに寝転がる。

 時期としては初夏を迎えていた。柔らかい日の光を感じながら喉を鳴らしていると香里奈が怒った様子で隣までやってくる。長い髪を黒く染め、一本に結んでいた彼女はいかにも「優等生」という見た目をしていた。


『ああ、分かったって、戻るって』

『だったら――』

『その代わりだ、お前も少しだけ付き合ってくれ。少しだけ』


 渚は、ちょうど一人分空いたマットのスペースを手のひらでぽんと叩きながら欠伸をした。あまりの呑気さに香里奈は返す言葉もない。だが言質は取った、と仕方なさそうにマットの上へ腰掛ける。

 このようなやり取りは初めてのことではなかった。お互い、半ば恒例のようなやり取りを経て今のような姿勢に落ち着いていた。


『それで、お前もサボりか』

『サボりじゃありません。貴女を説得してるんですよ』

『説得力ねぇぞ』

『黙ってください』

『へいへい』


 涼しい風が吹き抜けていく。

 遠くの教室で教師たちがチョークを忙しなくカツカツ鳴らす中、屋上はあまりにゆっくりと時間が流れているようだった。


『香里奈、進路希望調査、書いたか?』

『書きましたよ』

『何書いたの』

『……進学して、先生になりますって』


 二人、並ぶように横になっている中、渚は香里奈の方を向いてなんとも言えない微笑みを浮かべていた。目の中に複雑なものが隠れているようだ。


『いいと思うよ、香里奈は真面目だから、きっといい先生になる』

『そう言う青凪さんは、どうするんですか』

『決まってねぇよ、想像すらできてない。今のこの時間がずっと続けばいいって思ってるのによ』


 渚の手が伸びて、香里奈の頬に乗った。


『こんなふうに、お前と一緒に居られなくなるのが辛くて仕方ないよ』

『……だったら、私と同じ道を選んだらどうですか。青凪さんの頭なら何にでもなれるじゃないですか』

『や、私に先生は向いてないよ。クラス担任持って生徒の面倒見たり、授業のことで一日中拘束されるのはムリムリ』

『じゃあ諦めてください。残念なことですが』


 ふん、と小気味よく言い切った香里奈だったが、渚が何も返事しないことに気が付いて気まずそうに息を吐いた。その向かいでは、渚は目を閉じたまま空を向いて光を探している。


『なぁ』

『今度はなんですか』

『保健室の先生って、暇そうじゃね?』

『……は?』




 夜の海か遠くに控える中、話を聞いていた澪は頬を熱くしながら驚きの表情になっていた。無理もなかった。


「渚ちゃんの話、どこから本当でどこから嘘かわからないけど……なんか、それっぽくない?」

「うん……」

「なんかちょっとだけ元気出たな……澪、家出の話、詰めていくよ」

「えっ?」

「考えられるうちに考えとくんだ。それで、本当にどうにもならなくなったら実行する――お、湊先生が来た」


 澪が振り返った瞬間、自動ドアが開いて香里奈が外へ出てきた。その手にはゼリー飲料とコーヒー缶、グラノーラバーが入っている。健康からは程遠かった。


「湊先生って、もしかしてこれから残業ですか」

「……持ち帰りです。これから教育実習生が来るので、その資料作りをやるんですよ」


 香里奈は疲労感を滲ませながら強がって微笑んでみせる。そして、朱里にべったりの澪の頭を撫でながら遠いところを見つめた。


「浅海さんは真面目ですが……人を頼ることを忘れないでくださいね。せっかくいい友達がいるんですから」

「へ……」

「それじゃ、私は戻って仕事です。二人とも、くれぐれも変なことに巻き込まれないでくださいね」


 呆然と座り込む澪を置いて、香里奈は車に乗るとそのままコンビニから離れていった。彼女の言葉を思い出した澪は、隣で微笑んでいる朱里の頬に優しいキスを送った。


「急にどうしたの」

「なんでもないよ。これからもよろしく、って思っただけ」

「そっか」


 澪はもとの明るい表情を取り戻す。たとえそれがほんの僅かしか続かないものだったとしても、今この瞬間だけは自分を覆う悲壮感から逃れることができていた。

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