scene40: 潮合い

 それからまた数日が経った。一週間の勉強合宿を明後日に控えた浅海家では、澪が死んだような顔をして夕食を摂っていた。同じテーブルには珍しく父親の姿もあり、母親を含めて二対一の状況で味のしない野菜炒めを腹に入れている。普段、母と二人だけで過ごす夕食の時間も決して楽しくはないものだが、そこに父が混ざっている時は尚更過ごしづらいことこの上なかった。


「それで、課題はどう? 計画通り進んでる?」

「うん」


 嘘をついた。


「母さん、澪なら心配要らないさ、なんたってうちの娘なんだから」

「そうよね。ちゃんと今まで頑張って結果を残せていたもの」

「それでどうだ、この間買った赤本はやってみたか」

「うん。まだちょっとしかやってないけど」


 また、嘘をついた。

 澪は死に物狂いで余裕の表情を作る。


「心配しないで。ちゃんと、前に立てた計画通りにやれてるから」

「そうか、それなら浅海家も安泰だな。こんな優秀な子がいるんだから」

「さっきからあなたは何を言っているの……ああ、もう二缶も空けてるじゃない」

「せっかく久しぶりに三人で夕食なんだ、もっと出せもっと出せ!」


 陽気になった父親と、呆れながらもそれに応える母親。澪は二人の感情に水を差さないようニコニコと笑顔を保っていた。テレビではタレントの世間知らずな解答と後付けの大笑いが飽きもなく垂れ流され、静かの天使が通る場所は残されていない。

 苦しかった。

 昔から違和感を抱えながら過ごしていた時間だったが、その正体に気が付いてからはより一層辛くて仕方なかった。いつもより少しだけ早く夕食を済ませ、話の切れ目を探し、勉強をしなきゃと適当なことを言って澪は台所を出る。


 廊下に出た後も父親の声が聞こえていた。逃げるように階段を駆け上がる。自室へ入ってドアを閉めた瞬間、涙が滝のように溢れ出てきた。


「もう無理! こんなの、もう、耐えられないっ……!」


 無意識のうちに取り出したスマートフォンでは朱里とのチャットが光り、もう耐えられない、というメッセージを送っていた。今までの疲れがどっと押し寄せた澪は布団に倒れこむ。

 目に見えない大きな重石が全身を押し潰そうとしているようだった。努力ができなくなった自分自身に対する失望と家族からの期待、被っている皮が剥がれることへの恐怖、それがこれから一年以上も続くことへの絶望。頭の中は硬く凝り固まり、行き場のない暴力が宿った両手両足は空を切っている。叫びたい気持ちを腹の中へ抑え、それでも漏れたものを枕越しに吐き出し、涙と鼻水で顔を腫らしながら世界の全てを呪い始める。


「朱里ちゃん! 朱里ちゃん!」


 呼ぶのは、自分の本当の姿を見てくれる大切な人の名前。

 この生き地獄へ下りた一本の蜘蛛の糸。すると――




 ――誰かの声がした。


 澪が顔を上げると、夏の夜風が濡れた頬を撫でていった。




「酷い有様だな、こりゃ……」


 開け放たれたカーテン。

 窓のサッシに脚を掛けて屈む、自由の使者がそこにいた。


「朱里、ちゃん」

「大丈夫だよ、澪。ひとしきり泣いたら荷物を持って外に出よう。前に話した通り、準備した通り……きっとうまくやれる」

「なんで、どうやって……」

「そりゃ、愛の翼って奴だな。ああ、クサいこと言うの慣れないよ」


 ベランダを見ればそこには脚立が掛かっている。いつも、朱里が自分の部屋を出入りする時に使っていたものだった。涙が引いた澪は込み上げる嬉しさに喉を震わせ、自分の恥ずかしい顔を見られないようにとティッシュで顔を綺麗に直し始める。

 風向きが変わっていた。まだ顔の赤い澪は紙屑をゴミ箱へ放ると、部屋の隅に用意していたリュックサックを窓際にかける。


「じゃあ、バレないように靴を持ってきて。私は先に下で待ってるから。そうそう、布団の中になんか長いの入れて、カモフラージュするのも忘れないで……」

「うん。分かった」

「急がなくていいよ。いつものように、ちょっと飲み物を取りに行く感じで」


 頷いた澪は、朱里が窓の外へ戻るのを確認してから部屋のドアを開けて階段を下りた。足音を立てずにゆっくりと下り、騒がしいリビングの横を通り過ぎて玄関へ出る。鍵の掛かった戸の前で自分の靴――日常用の靴と通学用のローファーを持って部屋へ戻る。

 心臓が弾け出そうな中、動きやすい服装に着替えた澪は荷物をリュックサックとハンドバッグ一つにまとめ、掛け布団の中に"モノ"を詰めてから窓枠を超える。ベランダで靴を履き、窓とカーテンを丁寧に閉め、朱里が下で待つ脚立に脚を掛けた。


 だいじょうぶ、ゆっくりおりてきて。朱里の言葉を信じて、澪は二階から家の庭へと下りてくる。二人は再会のキスを済ませた後、それぞれ自分の自転車に跨がり、夏の夜空が見下ろす中を海の方へ抜けていった。




「わぁっ……!」

「落ち着いて、澪。もう大丈夫だから」

「うん! なんだろう、すっごく楽しい!」


 白色灯に照らされる澪の顔は、この夜の中で何よりも明るくて、どんな時よりも希望に満ちていた。釣られて笑みを零した朱里は自転車のギアを一つあげて、県道沿いの道を走る澪の自転車を追い越してみた。それをまた澪が追い越し始める。


「朱里ちゃん、ずっと一緒だからね!」

「うん! 澪も、絶対に離れないでね!」


 遙か遠くの海鳴りも、二人を縛る世間の声も、今は届かないものになっていた。夏空に浮かぶ蠍の毒は、例えどんなに時が経とうが、永遠にオリオンを蝕めない。

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