scene10: ウミノ珈琲

 日が少し傾き、開いた窓からわずかな光が部屋へこぼれ始めていた。目の前の課題に取り組む澪は手を動かす一方、真向かいの席で椅子を二つ使って寝転がる朱里に気を取られつつあった。

 個室に入ってから三時間ほどが経つ。二人で共有している机には、澪が使う参考書と筆記用具の類いが置かれているほか、朱里が図書館から探してきた海の写真集が積まれていた。たった一度だけ読まれた本の陰で横になっていた彼女はしばらく夢と現の境を彷徨っていたが、腹を鳴らすと頭をもぞもぞと動かした。


「……ねえ澪。腹、減ってない?」

「まだ大丈夫だけど……いつもお昼はこの時間なの?」

「食べたい時に食べてる。ただ、今日はまだ何も食べてなかった……」

「ダメだよ、じゃあ早く外行かなきゃ」

「ああ、澪の優しさが染みるー」


 手元の問題をキリの良いところで終わらせた澪は筆記用具を片付けて立ち上がる。机の上に積まれていた本の表紙を飾る海岸沿いの夕日が目に入った時、澪の頭に朱里と初めて話をした時のことが蘇った。

 活気なく立ち上がる朱里は借りていた本を両手で一度に抱えて個室の外へ出て行く。我に返った澪も荷物をまとめ、図書館近くで食事できる場所を思い出していた。


「えっと、それじゃあ、どこに行く?」

「道の駅がいいな、あそこにいい喫茶店入ってるんだよね」


 温まったサドルに跨がり、昼下がりの日向ひなたへ戻って海沿いの県道に出る。先導する朱里の背中を澪が追いかけていた。七月半ばも過ぎようとする太陽が、赤と青のコントラストで眩しい二人を照らして夏色に輝かせる。

 海開きを迎えた八浦の浜には早速親子連れの姿が見られ、その中に混ざるように澪たちとあまり変わらない年代の男子らが水着姿で騒いでいた。遙か遠くで浮く白い漁船を横目に、町で一際賑わっている場所へ混ざりに行く。駐輪場に自転車を置き、何台もの車が色とりどりの様相を呈する横を過ぎて、白塗りが美しい二階建ての前までやってきた。


 道の駅「はちうら」――海の真横を走る県道に沿って作られた、八浦町の観光の拠点となる場所である。夕日と海の景色はもちろん、地域の名物である魚介を取り扱ったレストランや、珈琲に力を入れた喫茶店の本店も内蔵されており、地元住民の飲食の場としての機能も果たしていた。

 朱里を先頭に、二人は灼熱の炎天下から喫茶店「ウミノ珈琲」へ逃れる。全身を焦がすような蒸れ風から解放されて澪は一息ついた。店内には何台ものテーブルと仕切りが配置されており、店の入り口からは会話を楽しむ婦人らの頭が見えるのみだ。海沿いの窓は大きなガラスで景色が開け、外の陽気も相まって雰囲気は明るい。


「澪は、頼む物決まってる?」

「まだ。なににしようかな……」


 店内を流れるボサノバのピアノとギター。ゆったりとした雰囲気の中、首を上に向けると木目調の枠内におすすめメニューが宣伝されていた。店主がこだわり抜いた豆で作るブレンドコーヒーとカフェオレ、甘いキャラメルやチョコレートを絡めた飲むスイーツの他に、フードメニューとしてサンドイッチが紹介されている。

 その中でも一際印象強いのが、八浦の海で捕れたタラをフライに揚げた、白身魚フライを挟んだものだった。粗く刻んだ卵とタマネギのタルタルソースで程よく膨れた断面を見ているうち、飲み物だけを頼むつもりだった澪もお腹が空いてくる。


「"八浦タルタルサンド”とアイスカフェオレ」

「澪も食べる? それじゃ私は遠慮無く"エビとサーモンのトマトクリームパスタ"。あとブレンドコーヒーを貰おうかな」


 ヒバの木目が綺麗なカウンターで朱里が注文を済ませる。注文を受け付けた男性が店の裏へ戻った後、二人は広い店内を見渡して席を探し始めた。なるべく目立たない、窓際の隅にいいソファ席を見つけた朱里は楽しげに手招きをする。


「もしかして、澪は初めてだった?」

「うん。隣のレストランは行ったことあったけど」

「きっと気に入るよ……私、ここからの景色が好きなんだよね」


 遠くに伸びる白い灯台を臨む。八浦の名前の由来となった鋸の形に歪む海岸は観光客で賑わい、見渡す限りの海には漁業を生業とする者たちの船が浮かんでいる。夏の眺望を一度に楽しめる場所に澪の心も晴れわたる。

 だが、向かいに座る朱里の視線はそのどこにも向けられていなかった。澪は、全く焦点の合ってない目で惚けた彼女の横顔を見ながら、少し寂しそうに眉を下げる。


「朱里ちゃん」


 声を掛けても反応は薄い。ひっそりと歯を食いしばった澪は手を伸ばし、テーブルに置いたままの朱里の手にそっと被せてみた。


「あ、澪――」


 朱里の意識が戻ってくる。だが、時を同じくして、澪の視界に珈琲を持ってくる店員の姿が目に入った。何も無かったように手を引っ込めた澪は不満げに朱里を睨む。

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