scene9: 勉強会

 夏色の空を窓で隔て、ブラインドの下がる小部屋で二人の少女が向かい合っている。それはどこまでも対称的で、パズルの凹と凸が隙間なく合わさるように一枚の光景を作っていた。身長と体付き、髪の長さに着ている服の色、ものの考え方から勉強に対する態度、プリントの進み具合、顔つき、すべてが正反対だ。

 気難しい表情でシャープペンシルを走らせるのは澪である。

 彼女は、夏休み前の定期試験に向け、満遍なく穴を作らないよう計画した範囲を前倒しする形で取り組んでいた。手元のノートには機械的な精密さで数式と図形が書かれ、演習回数に裏打ちされた正確な解答が作られていく。


「うわ、この先生の問題分かりづらいなあ」


 その反対側で、手元の英文を読んでいた朱里が面白おかしく声を上げた。

 全く勉強をしていない、自分でそう言った彼女はペンを動かすことはおろか、筆入れを開ける気配も無い。彼女の持ってきていた参考書は澪の物と比べれば新品同然で、隅が丸まっていたり、付箋が貼られていたりすることもなかった。


「しかもここ字間違えてるし……へえ、こんな内容だっけ?」

「書かないと覚えないよ」

「や、書かなくても平気」

「成績、ギリギリじゃないの?」

「落ちなきゃ別にいいんだよ。あ、澪の字綺麗だね」


 好奇の視線を感じて澪の右手が止まる。この勉強会は失敗だったかもしれない、という後悔が首をもたげた。渋い顔を上げると、個室に入って初めてシャーペンを取り出す彼女の姿が目に入る。

 朱里は手に持っていたプリントを裏返すと、澪が書いていた字を見ながらゆっくりと左手を動かす。ものの数秒のうちに全く同じ形の文字列が書き込まれた。


「……何やってるの?」

「澪の真似」

「やめてよ」

「ペンの持ち方も違うよね。ちょっと教えて」


 言われるままに見ると、朱里は中指と薬指を支点にシャープペンシルを制御しており、人差し指と中指でしっかり持つ正しい方法とはまるで違う。小さかった頃の澪が鉛筆の持ち方を指導された、遙か昔の記憶が蘇る。それで少しは真面目にやってくれるなら、と澪は手元のノートを閉じ、身を乗り出して自分の持ち方を見せた。奇しくも中指のペンだこが目立つ状況で落ち着かない。


「うーん、持ちづらくない?」

「こっちで合ってるよ」

「自信ないからさ、ペン持たせてくれない?」

「なんで――」


 溜め息を吐きながら澪は手を伸ばし、長く滑らかな左手に触れると指の一つ一つを丁寧に折り曲げていく。惨めな気持ちを色濃くしながら今日のノルマを諦めていると、朱里はいつの間にか真面目な顔で中指のを見つめていた。


「努力家だよね、澪って」

「……いいものじゃないよ」

「私はそういうのできなかったもん。なんかごめんね、邪魔ばかりしちゃった。面白い本でも探してこようかな」


 人が変わったように朱里は席を立つとその場で背を伸ばし、座り姿勢による肩の凝りをほぐす。根無し草そのものであった。このまま行かせるわけにもいかず、かといって無理矢理に引き留めて椅子に縛り付けるのも澪には憚られた。


「試験、大丈夫?」

「なんか問題出してみてよ。例えば、古典とか」

「――じゃあ、"枕草子"の著者と成立」

「清少納言、平安中期」


 即座に返ってきた低い声に澪は気圧される。

 空気が乾いていた。今度は古文の教科書をめくり、中の文章から次の問題を出す。


「"少納言よ。香炉峰こうろほうの雪いかならむ"」


 朱里は窓際にある巻上機のスイッチを押してブラインドを引き上げた。煌めく海面が広がっている。澪が返す言葉を失っていると、朱里は先程の低い声で語り出す。


「"さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそ寄らざりつれ"、だよ」

「……え」

「じゃあ、今度は私から」


 澪の頭は、普段のように働かなくなってしまっていた。


「"うつくしきもの"」

「……瓜にかぎたる、ちごの顔」

「すずめの子の」

「ねず鳴き、するに、踊り来る」


 かろうじて、家での音読で身体に染みついた言葉がぽろぽろ歯切れ悪く声になる。それを聞いた彼女は穏やかな表情に変わると、個室の出入り口で、呆然と座り込む澪に背を向けた。すっかり動転した彼女は焦点の合わない目で赤色の輪郭を見つめる。

 朱里は数秒ほど時間をおいてから、息の止まった澪へ意地悪な笑みを送った。


「もう一つあるよ――"澪のペンだこ"」

「それはもういいでしょ!」


 くすくすと息を漏らしながら朱里が出ていった後、澪は個室とはいえ叫んでしまった自分に嫌悪感を覚えて両手で顔を覆った。彼女が隠していたものの片鱗を見せつけられ、一人唸りながらやりきれなさに苛まれる。

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