scene36: 泥沼

 時計は夜の十二時を回っていた。明かりがなく暗い中、船場家の階段を、朱里が足音一つ立てずに忍び降りている。スマホのライトが彼女の行く道を頼りなく少しばかり照らしていた。

 ひどく喉が渇いていた。水を飲もうと台所へ向かっている時、リビングに明かりが付いていることに気付く。そこから、母親のすすり泣く声が漏れ出ていた。


「どうして、こんなことに……ああ、あなた……」


 戸の隙間から覗けば、部屋の隅に置かれた仏壇の前で年老いた母が泣き崩れている。

 初めて見る光景ではなかった。

 朱里の父親は既にこの世を去っている。母と比べれば、娘に対してまだ理解がある人だった。それに甘えていた過去もあるが、そういったことの積み重ねが今の母親との険悪な関係に繋がっているのかもしれない。


「ひめは、ついにおかしくなってしまったよ……なんでも、浅海家の娘と外に出ていたって話。どうか、嘘であってほしいね……」


 朱里は心のなかで舌打ちをする。いつか知られることではあったが、あまりにタイミングが悪かった。


「私はどうしたらいいの……ねえあなた、返事をおくれ」


 対外的には気を張っているから他の人たちにはわからないが、朱里はその人の本性をよく理解していた。

 父がまだ生きていた頃、彼女は専業主婦として家事をこなしながら朱里の尻を叩く仕事をしていた。このように情けなくなったのは一人になってからだ。稼ぎ手がいなくなってからも働くこともせず、ただ貯蓄を切り崩しながら毎晩すすり泣くだけの生活を続けている。その癖、娘に対しての当たりは強い。


「私は、耐えられないよ……」

(だからと言って、自分の理想を娘に押し付けないでよ……)


 浅海家との対立も、朱里の父親がいなくなってからは下火になってきている。それもそうだ、片側の主婦がこんなにも弱ったのだから。明確な事件がない現在、お互いの家に微妙なしこりを残しながら、じわりじわりと染み込むようにして井戸端社会の表からは姿を消していた。

 かと言って、今までの自分が間違っていたこともすぐには認められないだろう。朱里はそれをはっきりと理解している。昔の自分に縛られて無益な争いをしているのは本人がわかっているはずなのだ。


(……みんな、どうにもならないじゃん)


 澪と朱里を取り巻く鬱屈としたもやは黒泥のように粘りつく。行き詰まった大人たちの怨嗟が複雑に絡み込んで重い悲壮感に発酵し、まだ何も知らない少女たちをがんじがらめに縛っている。

 どうにもなりそうにない。朱里は拳を作る。足音を立てないようその場を離れ、冷蔵庫から飲み物を取って自室へ滑るように逃げ帰った。


 明かりをつけることは憚られた。だが外を見てみると、川の向かいに立つ浅海家の2階に明かりがついている。澪はまだ起きているのだ。またかつてのように勉強しているのか――ふとそんなことが頭をよぎるも、最近の彼女の悲痛な笑顔がそれを塗り潰した。


(澪……)


 部屋に散乱するいくつもの興味の残骸。それらにはできなかったことをしてくれた少女の像が瞼に浮かぶ。崖の縁を舞う蝶のように、彼女は目の前を明るく綺麗な色で染め戻してくれた。

 その色がまたくすみ始めている。

 一度は取り戻したはずの彩りが視界の端から崩れていく。澪と二人で一緒にいるその時を除いて。


(結局、私はまともになれないんだ。ずっとおかしいままだ、ずっと……)


 先程の母親の言葉が蘇る。おかしくなっているのは、誰もがそうじゃないか。捻くれた朱里は自分へ向けられた矛先を妄想の中で反らす。

 しかしそれは母がやっていたことと大して変わらないのだ。非凡の才を持つ朱里はそれを理解してしまっている。無知のままに何かを攻撃してひとまずの安息を得ることなど、彼女の性格と気質が許さない。


(起きてるかな)


 一人だけでは潰れてしまう――スマートフォンを取り、澪とのチャット欄を開く。


『起きてる?』


 返事は、まもなくやってきた。


『うん。朱里ちゃんも起きてるんだね』

『澪』

『なに?』


 しばらく迷ってから、朱里は次のようなメッセージを送った。


『寝れないなら、コンビニ行かない?』

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