scene35: 黒影

 夏休み前日、澪は日が沈んでから家に帰ってきた。制服を若干の砂で白くしていた彼女は足を床で擦るようにして廊下を通り抜けていく。台所にいた彼女の母はそれに遅れて気付き、声をかける前に娘の姿を階段へ見失ってしまった。


 暗い自室は外の蒸し暑さそのままで、澪の小さな手がエアコンのリモコンを探り当てた。冷風を流してから明かりをつけると、机の上には夏休み用に買っていた有名私立大学の赤本が積んであった。その横には家庭教師と学習塾のリーフレットが何枚か重なっている。


「……」


 背中を丸めていた澪は制服を脱ぎ捨て、下着姿になってベッドへ倒れ込んだ。目を閉じてしばらくしているうちに寝入り、夕焼け色に歪んだ夢へ落ちていく。


 そこは黄金に輝く世界だった。

 傍で今にも太陽が沈みそうな中、西日に煌めく水晶の砂道を歩いていた。澪の向かう先には、いずれ天球が帰り行く海原が横一直線に広がっている。

 足の裏には灼けた粒が刺さっていた。

 耐え忍ぶように一歩一歩進んでいく澪はやがて砂浜へ辿り着く。全身を炙られていた澪はそのまま海の中へ歩を進めていく。くるぶしまで浸かり、膝を沈め、腿を濡らし――


『澪』


 後ろから朱里の声がすると同時に、澪はその場で抱き留められる。何度でも経験した心地に自然と目を細めていると、夢の中の朱里は澪の耳元へ顔を寄せた。


『私と一緒に、死んでくれる?』


 朦朧としていた澪はそれを聞いて頷いてしまう。すると、朱里は澪を抱いたまま勢いよく前へ倒れ込み――煌々とした水面に顔を叩きつけられた澪はそこで現実世界へ蹴り出された。


 ベッドの上で荒い息を整える。

 急いで身体を起こした。背中に何か重いものが取り付いているような気がする。


「今の……」


 折良くして、階下から澪を呼ぶ母の声がした。ひとまずルームウェアに着替えた澪は洗濯物を持って階段を降りる。




 いつも通り父のいない夕食。テーブルの上に並べられたハンバーグを口にしながら澪は母親と向かい合っていた。いつになく物静かな澪に、何やら意気込んでいるような母親が語りかけている流れが続いている。


「それでね、勉強合宿ってどうかなって思って」

「合宿? どこでやるの」

鯖之山町さばのやまちょう山間やまあいにあるホテル。3食ついてしっかり面倒見てくれるそうよ」


 鯖之山町は、八浦町から北側へ一つ隣に入ったところにあった。ホテルが位置するところは町から遠い奥まったところで、一日中勉強するにはうってつけの場所とも言える。

 澪の顔に変化はなかった。フォークを握る手が、ほんの僅かだけ力んでいた。


「期間は?」

「一週間。高校の課題も早く終わらせて、来年の受検勉強に備えられるわよ。去年行ってたところより日数が長くて、それでいてお金もかからないからお母さんこっち選んじゃった」


 嬉しいでしょう? と言いたげに話し続けるも、向かいで静かなままの娘を見た母親は、ようやく澪が普段と様子が違うことに気が付いた。好物なはずのハンバーグにもあまり手が付いていない。


「澪、どうしたの」

「ん、なんでもないよ」

「最近元気ないから心配してるのよ。何かあったらお母さんに言いなさいね」


 苦笑を堪えながら澪はハンバーグを口に放る。とりあえず皿の上にあった分だけを急いで食べた澪はごちそうさまを済ませてから自室へ帰る。


 暗い部屋で、ベッドへ倒れ込む。

 ずんと重い頭で宵闇を見つめる。


「朱里ちゃん……」


 船場家の娘と仲良くしたい――その一言が言えればどれほど楽になれるのだろうか。今の自分に必要なのは勉強に必要な環境でなく、側にいて互いに支え合う仲間だと伝えられれば、心を覆う黒い霧が晴れてくれるというのに。

 澪は凡才として生まれてきたものの、迂闊な行動が取り返しのつかない結果に繋がりかねないことはよく理解していた。朱里と二度と会えなくなる、それだけは避けたいばかりに、首元に真綿が巻き付いてゆっくりと締め付けてくるのだ。


「私、どうしたらいいのかな」


 勉強家としての仮面をもう一度付け直そうにも、それがあまりに辛くなってしまうほどに自分は変質してしまっている。合宿などもってのほかだった。学業に専念することよりも、その間朱里と離れ離れになってしまう方が余程苦しくてたまらない。

 私は、人生で一番輝いている時間を捨てさせられようとしているのではないか――澪の手元に残った綺麗な砂粒のような時間は既に多くなかったのだ。


「朱里ちゃんと、たくさん、青春したい……」


 それからしばらくして、脱力した身体から生気のない声が静かに漏れ出てきた。




「……あとは、どうなってもいい」

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