scene34: 腐れ縁
夏休みの到来に浮つく生徒の下校を見届けた香里奈は教卓の上のものをまとめていた。生徒たちが休みでも高校教師はまだ仕事が続くのだ。空いた窓から吹き流れる潮風に目を細め、自分の中で一区切りをつける。
心に引っかかっているものがあるとしたら、いつも学校へ来ているはずの澪が登校してこなかったことだ。そして"ひめ"も朝イチで姿をくらましてしまったらしい。
学校へ来ない以上、香里奈にどうにかできることでもなかった。それでも頭を悩ませていると、同じく生徒の相手から解放された渚が白衣姿で向かいから歩いてくる。
「よお香里奈。そっちも終わったか」
「青凪先生、保健室は空けていいんですか?」
「誰も居ねぇからいいんだよ。それより昼一緒に食わねぇか? 前みたいに屋上で――」
「今の御時世、屋上は閉鎖されてます。私たちが行ったら示しがつかないですよ」
「頑固だなぁ、んじゃぁ外に行くぞ」
「確かに昼休みですが……でも」
「他の人には見回りに行くって言っとけ。なんかあったら私も一緒に頭下げるから」
渚に丸め込まれた香里奈は職員室で他の教師へその旨を伝え、簡単な荷物だけを持って学校裏の駐車場に出る。そこでは渚が足元のコンクリートをつま先でトントン叩きながら忙しなく歩き回っていた。相変わらずの白衣姿だが中に着ているのは黒いTシャツで外に出る気満々である。
「何やってるんですか」
「"先生がいるアピール"をしてたんだよ。こんな場所で変なことしてるやつ見つけて余計な仕事増やしたくないだろ……いてぇ! 引っ張るな!」
「早く乗ってください、置いていきますよ!」
駐車場の隅に止まっている、ミニトマトのように赤く小さな軽自動車。香里奈は渚の腕を引っ張って助手席へ放り込む。ため息をついて運転席に乗ると、その頃には既に渚は白衣を脱いで畳み終えてしまっていた。
昼休みが終わるまで残り50分。エンジンがかかる。
「それで、どこに行くんですか?」
「あんま考えてなかった」
「はぁ……じゃあ道の駅のレストランにしますね」
「や、今日そこはやめといた方が良いだろうな。そうだ、寿司屋にしよう。車なら行けるだろ」
「はいはい」
5分という大人にとって貴重な時間をドライブに費やし、沿岸部からやや内陸へ入り込んだところに位置する個人店「うみかぜ」の前に着く。2台だけ用意された駐車スペースの片方に車を置いて二人は降りた。しばらくの昼休みをなるべくオフの状態で過ごそうと、香里奈もジャケットを車の中へ置いてブラウス姿になる。
看板が潮風に錆びつき始めてから久しいこの寿司屋は、見た目だけでは開店しているかの判別も難しかった。それでも地元八浦の住民にとっては小さな憩いの場となっている。それこそ今回の二人のように、ちょっとした話の場として使われることも多かった。
「大将、やってるかい」
「どうもこうもねぇ、さっさと座らんか」
「はいはい。おまかせ8貫二人分お願い」
「あいよ……」
カウンターの向かいには見た目気難しい壮年の男が立っている。いかにも頑固な寿司職人という容貌だ。6席のカウンターは左側2席が埋まっており、香里奈と渚は右側2席につく。
「はぁ……」
「何ため息ついてんだ、幸せが逃げるぞ」
「すいません、力が抜けてしまって」
カウンターに両肘を乗せてうなだれる香里奈……その顔を渚が横から覗き込んでいた。
「夏休み明けから、教育実習があるんです。これからその実習生を迎えて、いろいろなことを説明しないといけなくて……」
「私も、夏は運動部の大会で大変だよ。あの愛すべきバカ共が仕事増やさねぇかヒヤヒヤしないといけねぇ……水泳部の指導してたから分かるだろ? その間、こうやってお前とご飯は食えなくなっちまうし」
「じゃあ諦めてひとりで食べてください」
「そんなこと言わないでくれ、高校からの仲だろ? お互いたった一人の同期だし」
「あなたのせいで私は危うく大学落ちるところでしたけれど」
「でも、楽しかった……香里奈、最近、昔みたいに笑えてるかい」
香里奈が目を伏せていると、カウンター台に寿司下駄が2枚乗った。八浦の捕れたての魚で作った新鮮なネタがシャリの上で光を受け輝いている。
しばらくの間、二人は会話もなく寿司を口に放っていた。渚が黙っている間、香里奈は時々寂しそうに握り拳を作る。
「昔から、そういうところが好きじゃないんですよ。私のことを見透かしたように……」
「そりゃ、何でも知ってるさ」
「本当に言ってるんですか」
「香里奈は心配性なんだよ。そりゃ目先のこともあるし、いまは例の二人への不安だってある……でも、それじゃ潰れちまう」
渚は〆鯖を口へ放る。
「私のこと、もっと頼ってくれよ」
「……考えておきます」
香里奈は〆鯖に伸ばしかけていた手を止め、その隣にあったオニオンサーモンを一息に食べた。
「浅海さんと船場さん、あの二人を見てると……ごめんなさい、やっぱりなんでもないです」
「そっか」
渚は最後に残しておいたサーモンを飲み込んで格子状の天井を見上げた。おそらく、彼女もまた同じことを考えていたのだった。
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