scene32: 蟻地獄

 普段より大人びた姿の澪は、朱里と一緒に自転車を漕いで道の駅「はちうら」を目指していた。まだ終業式は終わっていない時間だ。不真面目な自由を謳歌するように、狭く閉ざされた世間から少しでも離れるように、海の横に伸びる県道を北へ走る。

 あまりにもよく晴れた日だった。こんな日はわずか一秒の時間さえも学校には使いたくない――ささやかな不良行為に走る快楽で心を毒しながら、澪は幸せに満ちた顔をしていた。


「朱里ちゃんとは、制服デートは初めてだったよね」

「まー、どこか行くなら休みの日だからね」

「私、朱里ちゃんのその姿も好き……なんだよね」


 降りそそぐ陽光の中を突っ切った二人はしばらくして見覚えのある駐車場へたどり着いた。展望室と若干の物販、そしてレストランと珈琲店が入った、道の駅「はちうら」だ。

 その日は風が良かった。自転車置き場に停めてスタンドを足で立てた後、遠くから聞こえる海の音に耳を傾ける。


「いい天気だね、澪」


 砂を攫う波音に朱里の首が向いた。声をかけられた澪が振り向いた先では、ぴたりと立ち止まった朱里が遠くの海を眺めている。その表情は見えない。


「まだ、呼ばれてる気がするの?」

「うん」

「……私のこと、置いてかないでよ」


 くすっと笑われたような気がした。僅かに振り返る朱里の顔には諦めと寂しさの色が濃い影を落としている。


「澪も、私に黙っていなくならないでね」

「そんなこと」

「あるよ……もし我慢できなくなったら、代わりに――私が、澪をグチャグチャにしてあげるから」


 彼女は冗談交じりに笑みを作りながら言うが、横に澪を睨む目はまったく笑っていない。その声色もあまりに冷酷で平坦としていた。

 澪の脳裏に、いつの日か学校の教室で見た赤灼け雲の光景が蘇る。あの時隣にいた朱里の視線の意味がようやく繋がった。


「ごめんね……」

「いいんだよ。ほら、辛気臭い話は終わり。せっかく学校休んだんだしウミノ珈琲行こうよ」

「うん」




 道の駅一階に構える喫茶店「ウミノ珈琲」は、まだ昼前ということもあって定年後の男女がパラパラと入る程度に空いていた。

 入り口から遠い壁際のソファ席を確保した二人はそれぞれの望む物をカウンターで注文する。澪はコーヒーフロート、朱里はアイスカフェオレを飲みながら、同じソファに並ぶようにして距離を詰めて座っていた。


「向かい空いてるから、澪そっち行けばいいのに」

「ん」

「それなら私がそっちに行くよ」

「んん」

「我が儘になったね」

「ん……」


 少しでも離れたら遠くへ行ってしまうのでは――ひと握りの不安に寂しさを掻きたてられた澪は朱里へそっと寄りかかった。いつになく弱々しい澪を受け止めながら、朱里は今の状況もそう悪くないなと思い始める。波に攫われて消えてしまいそうな朱里を澪の形をした錨がその場に留めていた。

 面と向かって話すようなことは残っていない。それぞれの日常の中でくすっと笑える出来事もない。雑談に挙げられる話題と言えばほんの細い糸を辿った先にある理想の暮らしについてだが、お互いが不安定で崩れそうな今に話すことではない。


 冷たいものを一口飲んで気が落ち着いた二人はしばらく窓際のソファ席で身を寄せ合っていた。高校では今頃終業式の真っ只中だろう。それも遠い国の出来事に思えてくる。澪は朱里にぴったりと寄り添うと甘えるような視線で目を上げた。


「朱里ちゃん、このまま家出しよ……?」

「唐突にどうしたの?」

「離れたくないの。ずっと傍に居てほしい」


 朱里は周りの席に座る客たちの様子を一瞬のうちに確認すると、ゆっくりと後ろへ引き込むように澪と二人でソファへ倒れ込む。周りから死角になった場所で澪と唇を重ね、ほんの数秒だけしっかりと抱きしめてあげた。名残惜しそうに身体を上げた澪は、この僅かだけの幸せを噛みしめるように目を閉じた。


「朝起きて、そこに朱里ちゃんがいて……夜寝る時も一緒に居たい」

「私だって、澪と一緒にどこかへ行きたいよ」

「行くだけじゃダメ。お母さんも、クラスの人も、誰も分からない場所で二人だけで暮らしたい。他には何も要らない……」


 起き上がった朱里は薄くなったカフェオレを喉に流す。再び腕に取り憑いた感覚を覚え、頬杖をついてテーブルの天板へ視線を落とした。


「ごめん。澪がそうなっちゃったのは、私のせい」

「……そんなこと言わないでよ」

「澪と初めて会ったあの時、私は一緒に話せる人が欲しかった……それだけだった。でも、澪と一緒に居る内に――」


 喉元で言葉がつっかえた朱里は口を真一文字に結ぶ。


「澪。近くで海を見ない?」

「行って、大丈夫なの」

「うん。澪と初めて会ったのは海だから、続きはそこで話す」


 心が決まった位置に落ち着いていない澪は、大好きな人の目に宿った覚悟の色を信じて頷いた。しかしそこに本当にあったのは、後悔と悲壮と自棄やけが混ざり合った、非凡の少女にはおよそ似つかわしくないものだった。

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