scene29: 重すぎた憧れ

 印刷機の音がけたたましく鳴り続ける職員室。六時間目の授業で担当が姿を消している中、残っている者の中に香里奈の姿があった。二年部の担任が集まるスペースの一角にデスクを貰っていた彼女は残っていた解答用紙の返却準備を終えるために最後の確認をしているところだった。

 既に他クラスの分は採点と点数入力を終えていた。自分が受け持つクラスの生徒、そのうちでも出席番号がかなり後の方の答案を眺めながら赤ペンを滑らせている。


「んん……」


 香里奈がこのクラスを受け持ってから二回目の定期試験。一回目の試験の採点では、出席番号で先になる澪の答案の出来具合ににっこりし、あとの人たちの出来栄えをそこそこに、朱里の答案で肝を冷やしていた。

 そして二回目。一回目と同じように澪の答案の出来に微笑みをこぼし、他の人たちの解答用紙には時折頷く様子を見せる。そして朱里の答案に差し掛かったとき――香里奈は思わず総毛立っていた。


「え……?」


 そこにあったのは"完璧"な答えだった。

 船場ひめ、の名前が書かれている解答用紙には一切の迷いなく文字が書かれており、一回目の定期試験で見たクシャクシャの皺も一本すら見当たらない。

 不意に香里奈の頭をよぎったのは彼女が何らかの不正行為を働いたことだが、それはすぐに否定された。文章の意味と作中での心情を書かせる問題には、作品の舞台背景や筆者の立ち位置等が授業の内容以上に詳しく、それでいて過不足なく盛り込まれた解答が返ってきている。クラスどころか学年内でもここまで造詣深い者はいないし、これだけの知識は付け焼き刃で身につくものでもない……


「……なんてことなの」


 ふと時計を見れば、採点に使っても良い時間が間もなく終わりに差し掛かっている。じっと解答用紙を見つめたい気持ちをそこそこに抑え、算出した点数をデータ入力する作業に入った。



 その一方。

 午後を休息に当てた澪と朱里は、保健室の中でもとのセーラー服へ着替えた後、ホームルームの準備が進む教室へ戻ってきた。後ろの戸から入ってそれぞれの席へ戻り、机に入っていた配布プリントの中身を確認する。数学の問題がいくつか例題として載っていたが、二人にとっては些細なものでしかない。

 該当する参考書のページに澪が付箋を貼っていると香里奈が教室に入ってくる。その手元に収まった重みを感じさせる茶封筒は膨れ、察しのいい学生はゲッ、と顔に緊張を走らせる。


「はい、皆さん席についてください。先週の古典を返却します――」


 ああああ、と教室のあちこちで悲痛な声が上がると同時に香里奈が名前を一つ一つ出席番号順に呼び出し始める。最初の方で呼ばれた澪は周りが騒がしい中彼女の元へ向かう。

 手元に返ってきたのは92点の答案だった……澪にとっては努力相応のまずまずな結果だ。とりあえずほっと一息をつく。


『浅海さん、点数上がってきてるじゃない。この調子で頑張って!』

『ありがとうございます……!』


 周りの喧騒に隠れるようなひそひそ声で先生とやりとりを交わす。なかなかに良い結果で嬉しくなった澪は朱里の席を見てみるが、そこに座る彼女は苦いものでも飲んだような表情で頬杖をついていた。

 先程までと様子が違う。

 澪の視線を受け続けていた横顔はじっと下を向いたまま、一喜一憂に沸く教室からはっきりと浮いていた。


「次、船場さん」


 朱里は立ち上がると香里奈の元へ向かい、もらった解答用紙をすぐ四つ折りにした。二人が何を話しているかはわからない。それでも、他の誰よりも長い香里奈の話を受ける朱里は適当な笑みを作っているように見えた。すると、次第に自分の持っている92点が妙に心細くなってくる。


 朱里が自分の席に戻り、残った者たちが解答用紙をもらったあと、香里奈はこのようなことを言った。


「今回の古典は全体的に点数が伸び悩んでいました。それでも満点を取った方が一名います。進学を考えている方は特に、夏休み期間中の過ごし方を気を付けてください――」


 澪は、朱里の顔を見ることができない。まだそうと決まったわけではないのに……


「明日は前期の終業式です。帰りに気をつけてくださいね。では、また明日」


 教室が騒がしくなる中、澪は解答用紙をバッグへしまって目立たないように廊下へ抜ける。そのまま自転車小屋で自分のものを見つけ、辺りに知り合いがいないのを確認してペダルに足をかけた。


 どこへ行っても、頭の上から暗い影が降りている。

 一人だけになるために、追いかけてくるだろう"彼女"に捕まらないように、澪は浅海家の玄関へ逃げ込んだ。丁度、廊下に出ていた母親と出くわす。


「おかえり、澪。試験は返ってきた?」

「あ、うん……」

「どうだった? 見せてちょうだい」


 足を止められた澪はバッグを下ろし、古典の答案用紙を差し出した。彼女の母はそこに踊っている「92」の数字に表情を柔らかくし、とても幸せそうに娘の頭を撫で始める。


「よくやったじゃない。前より点数上がってるわよ!」

「うん……」

「流石は私の娘……この調子で努力し続けたら有名私立も夢じゃないわね。本当におめでとう、澪!」


 努力。

 澪の顔に影が落ちた。


「澪、どうしたの?」

「なんでもない。ちょっと力抜けちゃった」


 適当な理由をつけて澪は自室へ戻る。そしてセーラー服のままベッドにうつ伏せで倒れ、サメのぬいぐるみに顔を埋めた。すぐさまそれはしずくに濡れ、続けざまに澪が漏らす涙声を吸い込んでくぐもらせた。


「なんで、なんで、私だけが頑張らなきゃいけないの……! たくさん遊んで、たくさん、青春したいのに……朱里ちゃんみたいに……!」




 次の日、澪は教室に姿を見せなかった。

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