scene30: 浅海家
次の日――終業式を前に雰囲気が高まっている、夏休み前最後の教室。窓際に立つ朱里は、学校の入口付近を一つの方向に流れていく学生たちを見下ろしていた。
手元のスマートフォンには澪とのチャット欄が映っている。テスト返却後、会話の一つもなかったのが妙に気がかりだったものだから「夏休みになったらまた喫茶店行こうよ」と送るも、澪からの返信はない。
「……」
もう10分で朝のホームルームが始まる。普段通りなら彼女は既に教室にいて、夏休みになったら何をしたいか等、特別でもないようなことを話しているはずだった。
まだ来ない。朱里の眉間に皺が寄る。つま先が忙しく床を叩く。返信のこないチャット画面が暗転した。
「澪、何やってんの……」
あと5分まで待っても、何の音沙汰もなかった。朱里は先程机に引っ掛けたばかりのバッグを取ると廊下へ飛び出した。
教室へ集まっていく波に逆らうように、赤いスカーフを揺らしながら玄関へ戻る。靴を履いて外へ出た時、折り悪く駐車場の方から見覚えのある人物が歩いてきた。背が高く髪の長い、朱里のことをよく知っている女――
「どこ行くんだよ」
朱里の足が止まる。渚は彼女の背後に回ると両肩へ取り憑くようにちょっかいをかけてきた。
「嫌なことあるなら、話聞くよ」
「……渚ちゃんは、何もしなくていいよ」
「そりゃできないな。私だって教師の端くれだ、終業式に出ないような悪い子を見過ごすわけにはいかない」
朱里は心の中で舌打ちをする。
「それとも……"彼女"のこと?」
「渚ちゃんは関係ない」
「んー。ひめちゃんは本当に変わっちゃったね。なんだか寂しくなっちゃうな」
「ごめん。本当に、急いでるから」
渚を振り切った朱里は逃げるように自転車小屋へ走り、そのまま滑るように半螺旋の坂を下っていった。後ろ姿が消えるまで立っていた渚は視線を落とす。
「香里奈も、面倒な奴を二人抱えちまって大変だよなぁ……」
朝の潮風を切る中で自転車が金切り声を上げている。少し錆が回った使い古しに乗った朱里は元来た通学路を逆走し、隼が飛ぶように一直線で住宅街へ急いだ。今頃教室では香里奈が朝のホームルームを始めているだろう……だが、彼女にとっては気にすることでもなかった。
船場家の前を通り過ぎ、川に架かった小橋を滑り――浅海家の前の道に僅かながらのタイヤ痕を残しながら自転車を止める。
「澪……」
しばらくその場で俯いていた朱里。その辺に自転車を立て、決死の形相で浅海家のドアホンを鳴らす。
空で雀が鳴いた。
一陣の風が過ぎていったあと、ドアが僅かに開いた。そこに立っていたのは、澪の母親だった。一つ前の時代に流行った髪型、どことなくテレビに毒されたアクセサリ……たった一度対面しただけで様々な推測が朱里の頭に書き込まれていく。
「えっと、どちら様? 澪の友達?」
朱里の鬼のような顔が僅かに緩んだ。そして彼女の予想が正しかったことが証明される。澪の母は、あれほど不快感を覚える船場家の、一人娘の姿を知らないのだ。
朱里の制服に彼女の名前が記されているはずもない。事前に知らない限り、彼女が船場家の者であることはわからない。
「はい。澪さんと少しお話をしたくて……上がってもよろしいですか?」
「いいけれど、でも大丈夫なの? いま、澪は珍しく塞ぎ込んじゃってて……今日は終業式なのに」
「……大丈夫です。失礼します」
正面から堂々と浅海家へ上がり込んだ朱里は、澪の部屋を案内してもらってから一人で部屋に入る。
厚いカーテンで光の一つも入らない暗い部屋。その端に置かれたベッドにはこんもり膨らんだ布団の山が一つあった。朱里が何も言わずに後ろ手で扉を閉め、澪の元へゆっくり歩み寄る。
「お母さん、一人にして」
いつになく棘のある澪の声に足が止まった。朱里は何で会話を始めたらいいか分からなくなり、黙ったままもう一歩、もう一歩、と距離を詰める。
布団の山が動いた。
「一人にしてってば……」
苛立った声をぶつけられながらも、朱里は部屋の真ん中まで辿り着く。目の前で横になる彼女は相変わらず布団の中だ。
朱里は適当に上のあたりへ片手を伸ばす。そして一本の紐を探り当てたあと、カチカチ、と2回引っ張ってみた。
ぱっ、と部屋の中が明るくなる。それと同時に山が崩れ、目の端を赤く腫らした澪が怒り心頭の表情で飛び出した――
「来ないでって言ってるでしょ!」
一思いに叫んだ澪はそこで初めて、部屋に入ったのが母親でないことに気が付く。
そこには、呆然と立ち尽くす朱里。目が合うも何の言葉もなかった。知らない一面を前に接し方を模索する朱里の目の前で、ルームウェア姿の澪は重い罪悪感に顔を曇らせた。
「……朱里ちゃん」
先に口を開いたのは澪だった。
「なんで、来たの? うちに来たら、大変なことになっちゃうかも、しれないのに……」
「澪だって、なんで今日来なかったの」
「……」
「別に休んでもいいよ。でも――その日は、私だって行かないよ」
「朱里ちゃんは、学校行っても、いいよ」
その一言を聞いた朱里は澪とゼロ距離まで詰め、胸ぐらを掴んで無理やりその場に立たせた。それでもなお離してもらえず、澪は苦しそうに口を大きく開く。
「冗談じゃないよ、馬鹿」
「じゅり、ちゃ……っ」
「私は、澪がいるから、大して行きたくもない学校に行ってるんだよ。今日だって、澪が来てたらこんなことはしなかった……! なんで休んだ! なんで、私に、何も言ってくれなかったのさ……」
気勢良かった声が泡に濁り、細く頼りなくなっていく。腕の力が抜けて解放された澪が見たのはいつになく感情の混ざった瞳で睨みつける朱里の姿だった。
「澪と"親友"になってから……私は、ずっと、澪に会うために生きてるんだよ。一人にしないで。私の知らないところで、いなくならないで……」
「……朱里ちゃん」
澪は、目の前で萎れていくような朱里を優しく抱きしめた。腹の中に篭っていた嫉妬の獣が薄く消えていくようだった。
「私、朱里ちゃんみたいに、なりたかった」
「澪」
「何でもできて、記憶力も良くて、すっごく綺麗で……でも、そうなれないの。どんなに勉強しても満点は取れないし、頭も悪いし……朱里ちゃん以外から褒められたこともなかった」
朱里の腕が澪の背中へ回る。
「私、もっと遊びたい。受験のことも忘れて、好きな人と一緒に色んなことがしたい。勉強ばっかりなんて嫌ぁ……」
セーラー服の襟元へ澪が甘える。既に何度も経験した抱擁でも、今回腕の中に包まれているのはあまりに弱々しい少女だった。硝子細工を扱うように朱里はその華奢な身体を支える。
「私の親は、たまにいい成績を取った位じゃいい顔しないんだ。普段から真面目にやれってよく言われてさ。だから、澪みたいに頑張れる人が羨ましい」
「私たち、逆に生まれてきたら良かったのにね」
「うん。本当に、そう思うよ……」
猫のように唸る返事の後、澪がゆっくりと倒れかかる。
ひどく消耗した身体を抱えた朱里は、彼女をもう一度ベッドへ横たわらせた。
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