Last scene: 潮愛

 八浦高校の屋上へ続くドアが、その日は開いていた。

 海からの気持ちよい潮風が吹き抜ける中、やや錆びたフェンスの近くには白衣を着た背の高い女性が立っている。そこへ、いつもより少しだけ挙動不審な様子の女教師がやってきた。


「久しぶりに来ると、懐かしいもんだな。お前とよくサボってたのを思い出すよ」

「結局、あの日言った通り、それぞれ夢を叶えたんですね……」

「なんだ、覚えてるのか?」

「そりゃそうですよ。あなたのことなんて、忘れられるわけないじゃないですか」


 以前と同じように並び立つ、かつての真面目な学生と不良生徒。二人で会ってわざわざ話すようなことも無かった。だが、学校の中でこうして二人きりになれる機会は決して多くなく、互いに今の状況を無駄にしたくない気持ちを腹に抱えている。

 それでも、二人はしばらく何も話さなかった。

 青空の下、日の光が彼女たちを徐々に茹で上がらせていく。そして、一番最初に浮ついてしまったのは――


「……あの、青凪さん」

「ん、どしたよ」

「青凪さんは、その……」


 香里奈は、ぼうっとした頭に全てを任せるようにして渚のもとへ歩み寄る。その足取りは少しふらついていたから、つい両手でその小さな肩を受け止めてしまった。


「……キス、したことは、あるんですか?」


 肩を掴む渚の指が、ぐっと力んで離れなくなった。

 今すぐにでもどうにかしたい、濁流のような激情を堪えて、渚は額を合わせる。


「――お前とは、これが初めてになるよ」

「あ……」

「香里奈……少し、じっとしてて」


 暖かくて、甘くて、そして少しだけほろ苦い。

 香里奈の履いていたヒールが、少しだけ背伸びしていた。








 あれから、反省文を書き終わって提出した二人は、いつもと様子の違う香里奈から気の籠っていないOKを貰って首をかしげていた。特製の反省文も何故かまんざらでもない様子で受け取ってもらえ、そのままお咎めなしで帰ってもいいことになったのだった。


 行きと同じ二人乗りで坂を下る。そして、海沿いの道へ出た時に、澪はある場所でゆっくりと自転車を止めた。後ろに乗っていた朱里も、今の場所がどこであるか見た途端に昔を思い出すような目で懐かしく息を漏らす。

 そこは、二人が初めて出会った砂浜だった。ちょうど今、澪の立っている場所が、朱里を見つけたときに立っていた場所。今の二人は「あまり海に近づいてはいけない」と言われているから当時の再現はできないけれど、同じ場所で遠くの海を眺めているだけでも思い出に浸ることはできる。


「朱里ちゃんと会ってから、すっごく色んな事があったよね。どれくらい経った?」

「まだ一ヶ月くらいじゃない?」

「くらい、じゃないよ。一ヶ月ピッタリ」

「……そっか、まだそれだけしか経ってないんだ」


 フェンスに手を置きながら身体全体で風を感じる。八浦の海風はどことなく懐かしかった。目に映るものは全て色がはっきりと映り、今までの視界に被さっていたくすみが消えたかのようにすがすがしいものに変わっている。


「澪は、これからどうするの? 色々あったけど、来年は受験じゃん」

「うーん……そうだね、少し休んで、それから家で過去問始める」

「わ、真面目だなぁ。私も一緒に行っていい?」

「勉強するときはダメ……朱里ちゃんがいたら、違うこと始めちゃう」

「そっか、そうだよね……あたしも、そんな気はしてた」


「私も、澪と同じ大学目指そうかなって」

「いいの? 朱里ちゃんなら、すごくいい大学だって……」

「んー、澪がいないなら別にいいかな。同じ学科に入って、同じ授業を受けて……家だって、澪と同じ場所にしてもいいんだよ?」

「……すっごくいい。考えただけで変な気持ちになりそう」

「じゃあ、今度一緒に勉強会しようよ。そしたら勉強効率もきっと……」「上がらないよっ」「えっ? あ、そうだった……」


 将来のことを考えていると、ウミネコが何羽か遠くで旋回しながら鳴いているのが聞こえてきた。そろそろ終わり、と澪は自転車に跨がり、その後ろから朱里が同じようにして澪の身体を抱きしめる。

 そのまますぐに出発しても良かったが、澪は、まだ少しだけ足を止めていた。


「……これからも、よろしくね。朱里ちゃん」

「うん。よろしく、澪」

「それじゃ帰ろっか。あ、今日はお母さんがうちでご飯しないかって――」

「え、じゃあ澪と一緒にご飯食べる! だったら今度はうちにも呼ぶね!」


 日がてっぺんを過ぎたあたり、二人の乗る自転車が町を駆けていく。

 揺れる草木の影で、二匹の透明なイルカがくるくると戯れ合っていた。

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潮愛 白金 将 @sirogane_sho

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