scene18: 船場朱里の不振

 朱里にとっては、定期試験の日でさえも味気ない日々の一コマに過ぎない。

 学校に行く、それだけで機嫌を戻した母から逃れるように自室で朝食を済ませ、セーラー服とスカートを纏う。腕と顔に日焼け止めを塗ってからサドルに跨がり、気乗りしない重い脚で地面を蹴り飛ばす。必要な物は筆記用具と昼に食べる弁当のみ。その半分を手に入れるため、晴天の下、心地よい潮気を抜けてコンビニを訪れた。


 入って真っ直ぐ進んだ先には、先週に出た新作おにぎりの宣伝と、リニューアルしたチキンと一緒に買うとお得なセールの告知が添えられていた。昼休みの居づらい教室から早々に逃れるため、早めに食べられる鮭と梅のおにぎりを一つずつ手に取ってコンビニチキンを一つ口頭で注文する。

 ふと、このまま学校を休んで海を見に行きたくなった。その衝動は朱里の意思を変えるには十分なものだ。だが、定期試験をぶっちぎろうかと悪巧みすると今度は澪の顔が頭をよぎる。何も言わなかったら後でちくちく粘着されるのは明白で、かといって試験前のこの時間に嫌な知らせ――これはあくまで澪にとってである――を送るのも憚られた。

 決済を済ませ、諦めて高校へ向かって自転車を転がす。雲なんて欠片も見えない。あまりに晴れているからこそ、この一日を校舎の中で使うのが勿体なかった。


「ちょっと待って、“いみじ”ってどういう意味だったっけ?」

「古典は午後だからいいじゃん! それより朝一の数学だよ!」

「あー、あれはもう諦めたよ。全然わかんない……」


 熱っぽい顔を手で扇ぎながら教室に入るも、既に中にいた生徒たちは手元の参考書やノートを睨んだまま朱里のことには目もくれない。すぐに澪の姿を探したが、彼女が普段座っている場所はまだ空席のままだった。

 欠伸を一つして、海を眺めることにした。するとしばらくして、窓の外に見たことあるサイズのセーラー女子が見えた。次にどう声を掛けようかを考えてみる。


 試験前だから簡単に済ませるか、それとも終わるまで黙っていた方が良いか……途中で面倒くさくなった朱里は放課後の予定を作り始める。試験期間は明日までだが、彼女にとっては今日も明日も普段通りの一日でしかない。

 朝のホームルームが始まる少し前のタイミングで、肩を重くした澪がゆっくりと教室に入ってくる。彼女は自分の席に着いた後、朱里のことに目をやる間もなくスクールバッグを机の上に乗せて顔を突っ伏した。ほんの五分後には香里奈が入ってくるのだが、それまでぴくりとも動くことはなかった。


「はい、皆さん、今日は試験初日ですよ。頑張ってくださいね」


 部屋中から響く阿鼻叫喚の声。朱里は腹の底から沸く可笑しさを必死に堪える。その一方、澪は石像のように固まったまま動かなかった。


 そうこうしているうちに朝の集まりが終わる。一時間目の試験は数学だ。眼鏡を掛けた気難しい男性教師が入り、試験問題と解答用紙を配る。幾何的な図形の特徴を把握しながら数学的問題を処理することが要求されていた。

 朱里は、試験問題が配られても涼しい顔のままだった。

 誰も居ないように静まりかえった教室。時計を見ていた教師が「始めてください」と言えば教室中の紙が慌ただしく捲られる。あちこちでシャープペンシルの芯が擦れる中、朱里は一通りの問題を眺めて考え込み、試験時間が始まって十分が経ってからようやく手を動かし始めた。


 書いては消し、書いては消しを繰り返す。解答用紙にペンの跡が刻まれていく。

 それが三重に重なった頃には試験時間の半分が過ぎていた。朱里は書かれたものを全て消しゴムで更地に返してから、各大問のはじめの部分の小問へ手を付ける。そのまま解答用紙の半分を埋めた後、試験時間を十分ほど残してペンを机に置いた。

 口元は笑っていた。目線は教室を離れ、窓の外の海へ向けられる。朱里の余興を邪魔できる者はいない。遙か向こうより伝わる波の鼓動に思いを馳せている内に時計の針は進み、男性教師が試験終了を告げる。


 解答用紙が回収され、ようやく椅子から立つことを許された朱里は斜め後ろを振り向いて澪の様子を確認する。積み上げた成果あってか、周りで打ちひしがれるクラスメイトの仲間入りをすることはなかったようだ。終わったことを顧みることなく、早速次の試験科目の総復習を始めている。

 朱里は安堵の息を吐くと、じっと座っていた反動のまま立ち上がって廊下へ飛び出し、学生の姿が殆ど消えた廊下を抜けて購買へ向かう。冷蔵棚に入っていたプリンの列は綺麗なままで、誰も手を付けることができていないようだった。




 午後は古典の試験を一つ残したのみとなる。香里奈とは別の教師が監督する中、朱里たちは一つの部屋で缶詰になって目の前の試験問題に取りかかる。いつものように一通り確認してからペンを走らせていると、以前澪と一緒に勉強した部分が問題として取り上げられていた。

 退屈に塗れていた朱里の頭が、あの頃の記憶の中で遊び始める。

 二人が“親友”になったあの日、図書館で隠れるように行った勉強会の記憶は鮮明に残っている。途中から朱里自身は適当な本を読み始めていたが、その中でも澪は参考書片手に問題を解き続けていた。


 勉強会の後、二人で喫茶店まで自転車を漕ぎ、夕焼けの中――親友になった。あの瞬間のことは、朱里は昨日のことのように覚えていた。身体の輪郭が溶けていくような不思議な感覚は自分一人だけの物だと思っていたのに、澪と一緒にいたあの時も確かに同じような心地よさに包まれていて……朱里を甘く誘う海神も、あの時ばかりはガラス一枚越しの場所に追いやられていた。

 ふと、澪のことをまた誘いたくなった。試験が終わった後に声を掛けようか。ご褒美だと上から言えばなんだかんだ着いてきてくれるだろうか――


「はい、時間です。筆記用具を置いてください」


 無邪気なままに思案していた朱里はその一言で正気を取り戻す。そして、手元の解答用紙がびっちり埋められている光景を見て口をあんぐり開けた。やっちまった、と声にならない驚きでパクパク動く。

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