SOx(日月)
教師になりたての頃、一限めの授業で教壇に立った途端に、最前列左端の女子生徒がこう言った。
「──先生、昨日と靴下おんなじ」
ませてんなあ、と内心毒づきながら、
よりによってその日(とその前日)に、彼女がたまたま暉の靴下を覚えていたというわけではない。恐らく、授業のたびに観察して、機を窺っていたのだろう。そんなことに記憶のリソースを使うなよ、と思いはしたが、学生とはつまらないことに熱中しているくらいが可愛らしいものである。
その日の昼休みに、職員室にひょっこり顔を出してきた同じ女子生徒が、暉と目があって「せんせー、
「今……」一応、腰をあげて室内を一見するが、目立つ長身はない。「いらっしゃらないみたいだけど、何の用事」
「御用聞きー」
歯を見せて笑う女子生徒に、敬語使え、と注意しているうちに、反対側の扉が開いて、猫背の痩身が入ってくる。
「あ、」
「せんせーも弓弦先生にタメ口じゃん」
「俺と先生は実際
なにかな、と穏やかな様子で近づいてきた月彦に、女子生徒は「御用聞きでーす」と屈託なく話しかけた。事務的なやりとりを終えて、彼女は不意に暉のほうをちらっと見ると月彦に向かってにや、と笑って耳打ちした。
「──あのさ、
長身を屈めて耳を傾けていた月彦は(そんなに真剣に聞く話ではないだろ、と暉は面白くなく思っていたが)、さらにその姿勢から首を下に向けて暉の足元を見た。それから顔をあげて「暉、昨日帰ってないのかい」とのんびりした口調で訊いてきた。お前もかい、とその友達付き合いの抜けない口調に一言申したかったが、彼のその声音が好きだったのもあって、肩をすくめるだけにとどめた。「──帰ったよ、お前と別れた後に」シャワーだけ浴びて洗濯放置して出勤ギリまで三時間寝たんだよ、と説明すると「泊まっていってもよかったんだけれど」と眉尻を下げる。女子生徒は露骨にテンションが下がった。
「えー。──なーんだ、弓弦先生かあ」
『弓弦先生』はきょとんとした表情をする。「そうだよ」
暉はため息をついて、月彦を見上げる。
「お前ン家泊まったら服無いだろ」
「貸したのに」
「や、だからでけーつってんだろ」
軽口を叩き合う二人に、女子生徒はくるりと背を向けて「じゃーね、頑張ってカノジョつくんなよ、せんせー」と笑った。
「靴下が昨日と一緒って」
明るい西陽の差し込む廊下で、突然に月彦がそう言った。
「あ? なに、言われたの」
「うん。宮内さんにね」
二人ともが受け持っているクラスの女子生徒の名前を出され、ああ、と納得する。いかにも、言いそうなタイプだ。
月彦は落ち着かなさそうに、乱れて落ちてきた前髪を指先で流す。普段と違う整髪料だからか、撫でつけた黒髪は少し波うち、畝ができている。随分と洒落て見えたが、暉はそれが偶然の産物であることを理解しているのでとりたてて何も言わなかった。だが、やっぱりいい男だな、などと思った。
「なんだか、だいぶ昔にも暉がそんなこと言われてたなあと思ったんだけど」
覚えてたのか、と多少意外に思う。月彦は、眼鏡を直して、長い睫毛を瞬かせる。
「あれって、──朝帰りを揶揄っていたんだね」
「……今?」
思わず、あきれた声が出た。月彦は、うーん、と首を傾げる。
「今やっとわかった」
「──八年越しにか」
また、居心地悪そうに前髪に触れる。暉の整髪料は癖っ毛を落ち着かせるためのものだから、さらりとした直毛の月彦には違和感が強いのかもしれない。
「言ったろ、俺とお前じゃサイズ合わねえって」
「盲点だった……」
「替えは三足置いとけよ」
「置いといたよ」
暉は腕を組んだ。そういえばそうだった。自分が月彦に、三足組みで安売りの靴下を買わせたのだった。おそらく、自宅の洗濯機の底に眠っている。ここ数日、深夜に帰宅するなり、二人とも泥のように寝こけるばかりだったものだから失念していた。
「……帰ったらすぐ洗濯まわすわ」
「なんか、悪いね……」
「試験期間終わったら整理しような」
もう一緒に住んだほうが早くないか、という言葉だけは、まだしばらくは飲み込んでおこうと思った。
───────────
泊まる予定なかったのに朝帰りしちゃったときって靴下の替えないよね、って話。
後半では既に替えを置いてあるにも関わらず洗濯のローテミスって替えがなかった。
忙しい時期に、より学校に近い暉の家が宿泊所みたいになってて半同棲かよって距離感になってたらいいな…と思ったけど、実際にはこいつ月彦くんと同じアパート選びそうで怖い。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます