Limone di gemelli(単発)


 影すらあざやかな、ラグーナの午後だった。

 コムーネとしてのヴェネツィアの隅にある、切ったレモンのような形をした小さな島。

 絶え間ない船舶の往来や橋を行く人の潮流。それを、青いゴンドラの上から眺めているのは、フレスコ画の天使のような琥珀の肌と金の巻き毛をもつ双子。袖のない白い麻のシャツは、大理石の彫像がまとうチュニックに似ていた。

 兄はレモンの実がついた枝とミントの葉を籠に投げ入れ、弟は蜂蜜の入ったガラス壜を抱えて、ゴンドラの上でゆらゆら揺れていた。白や真紅の花が水に浮かんでいる。

 河畔にならんだ建物は白くて、そこに水の青や陽の金がうつってきらきら街並みが輝いていた。その建物をつなぐ白い階段を、ひたひたと水が流れ落ちていた。小さな小さな滝のように、街中の階段が水路になってきらきら輝いている。朝、雨が降ったのだ。今はすっかり晴れて、ダンスをする若者のように身を寄せあった色彩豊かな建物と建物の合間に、青空から金の光が射し込んでいる。その細い水路をいくゴンドラは色とりどりで、万国旗のように列なっていた。双子のゴンドラは、青い色を波うつ絹のような水面に溶かし込みながら、流れにまかせてゆっくり、ゆっくりと、幾つもの橋の下をくぐって、島を巡っていた。

 印象派の絵画のような、黒い服の貴婦人が、カンパネラの形をしたレースの日傘をさして、花が流れていくように歩いていた。アーチの形をした小さな橋のたもとで、そっとスカートをつまみ、黒い靴を踏み出す。その姿を船の上から目にするなり、兄の方がぴょんと立ち上がり、橋を渡る婦人に声をかける。

「お姉さん、レモネードはいかが?」

 彼女は口許に手を当ててまあ、と言ったあと、いただくわ、可愛い売り子さんたち、と微笑んだ。トトーはすぐに半分に切ったレモンを籠から出して、硝子の搾り器に押し当てる。

「お姉さん、どこから来たの?」

「北の方からよ。……」

 まだ若い彼女は、蒼白い頬で微笑んだ。ミルクを混ぜたコーヒーのような肌に蜜を垂らしたような艶がある双子は、その北国の色に見入った。

「あなたたちはレモネードを売ってるの? 双子の天使」

「俺の名前はトトーだよ。サルヴァトーレ。こっちが弟のミッキー、ミケーレ」

「あら」婦人は品よく小首をかしげる。「あなたたち二人ったら、素敵な芸術家なのね」

 兄であるトトーは白い歯を見せて笑ったが、ミッキーの方はどうしてか、少し眉を下げて兄の背中に隠れてしまった。とはいっても、体が同じくらい小さいので、隠れきれていないのだが。

「俺たち、売るのはレモネードだけじゃないよ」シナモン・スティックで蜂蜜をからめ、搾りたての果汁をくるくるかき混ぜながらトトーはにっこりした。「寒くなったらホット・サングリアだって出せるよ」

 弟のミケーレも頑張って身を乗り出した。

「くだものだって、売ってるよ」

「春には苺売りになる」

「秋にはすももを売るの」

 双子が蜂蜜色の肩を寄せあって矢継ぎ早に言うのを、婦人は微笑んで聞いていた。陽射しが暑い季節だというのに、黒いドレスを着て、頭には顔を隠す黒いレースのついた小さな帽子をつけていた。…

 でき上がったレモネードを、弟がそっと婦人に渡すと、彼女は美しい所作で礼をした。

「お姉さん美人だね。また来てくれたら嬉しいな!」

 トトーはレモンを一顆もぎ、水面に浮かんでいた紅い花を添えて、婦人に差し出した。彼女はそれを受け取って、ありがとう、と言った。……ほんの少し悲しそうに。

 レモネードをゆっくりと飲み干して、去っていった貴婦人の周りには、悲しみという名前の霧のようなものが、リボンのようにまとわりついているような気がした。何もかも彩度が高くてくっきりとしたヴェネツィアの空気のなかで、そこだけが雨のなかのように、どことなくくすんでいた。

「最近、黒い服を着た客が多いな」

 トトーは橋の向こうに消える婦人の日傘を目で追いながら呟いた。「北の方からの客とか、さ……」

 ミルクみたいな肌に、黒い絹のドレスを着た女たち。誰かの母や、娘や、姉妹や、恋人……。彼女たちはチョコレートのような小さな帽子をかぶって、顔に黒いヴェールを垂らし、大きな荷物をもって、北からヴェネツィアへやってくる。

「何かあったのかな」ミケーレは不安そうに首をかしげる。

「戦争、だろ」トトーは訳知り顔をして、同い年の弟に言ったが、実際のところ彼も、最近巷を騒がせている戦争――後に世界大戦と呼ばれることになる――というものがなんなのかよくわかっていなかった。それは弟も同じなので、二人はよく似たかんばせを付き合わせ、じっと見つめあっているうちに……どちらからともなしに、くすくすと笑い始めた。ヴェネツィアというコムーネの端にあるこの島で生まれた双子は、そのうさぎの尾のように短い半生のなか、あざやかで永遠の平和しか知らないのだ。風に膨らむ帆と、花や果実の皮が流れる水路と、かもめの声、潮のかおり。そこに、爆撃機の影や、兵隊たちの屍はない。

 ミケーレは先にくすくす笑いをやめると、ミントの葉を指先でいじりながら、兄のなめらかな肩にこてんと頭を預ける。

「兄さん」

 ミケーレはもじもじして、可愛らしい頬を朱に染める。

「ぼくにも、レモンちょうだい」

 トトーは目をぱちくりさせて、にっと破顔した。「んだよ、しょうがねえなぁ」

 レモンをもうひとつ、きゅっと茎をねじってもぐと、硝子のペンのように細いナイフを籠の底から取り出して、そっとその紡錘形の曲線に沿って当てがった。

「ほら」

 搾り器にもかけずに差し出された、三日月の形をした果実を、ミケーレの指は祝福を浴びるように受けとる。

 蘭のような唇が、四つ切りのレモンをそっと食む。小さな歯を果肉を立て、花びらめいた舌が控えめに果汁をなめる。

「俺にも」

 兄の指がつんと弟の頬に触れ、その小さなかんばせに自分も唇を寄せる。ミケーレの唇に食まれていた果肉に、トトーが歯を立てる。形のよい鼻先がふれ合い、瞬間、柑橘のぱっと瑞々しい香りがあたりに飛び散った。

 互いに果肉を吸い、果皮をなめ、ややあってその金色から唇を離す。熱っぽい愛撫のように舌を絡めていたレモンは潰れ、果汁が双子の腕を伝って、船底にぽとりと滴った。

「……兄さん」

 ミケーレが名前を呼ぶ。トトーはそれを聞いて、少し笑って、目を閉じる。潮風が吹いて、ゴンドラが揺れ、二人の影が重なる。

 ふれ合うだけの接吻は、海とレモンの味がした。

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