愛の咆哮 (単発)

https://kakuyomu.jp/works/16816452220786401591/episodes/16817139555463831943

↑こちらのCPと同じ二人です。




 梔子の、はげしく香る宵のうちだった。

 夕立に濡れた庭は、狂ったように甘い匂いだけをふりまいて、可憐な生成りの輪郭すら見えぬ花の闇である。

 そのなかに、淡く浮かびあがる飛び石をまるきり無視して、雨滴の膜を帯びた砂利と苔を踏みながら、志信しのぶが玄関の引き戸に指をかけたとき、からりと音たて、先に内側から開けられた。

「…また、傘を」

 首筋に墨のようにまといつく黒髪を見てとり、家主は軽く溜息をついた。淡墨うすずみの絽の下には、壮年の痩せた鎖骨が透けている。

 麻のシャツは浸したように濡れて、それを煩わしそうに志信は摘まんで釦を外しながら、するりと上がり込んだ。

「芙蓉堂か、螢田書房に。それ以外寄っていないから」

「きちんと取りに行きなさいね」

 答えず、裸足を廊下にひた、とつける。水滴が後を追い、その背を男の軽い叱責が追いかける。

つきたちさん、明日螢田書房に行くだろう。そのとき見ておいてくれ」

「こら。自分が忘れたのに、人を使わない」

「効率化というものだよ」

 無責任というのです、と雑巾と一緒に投げられた言葉は無視して、志信は乱暴に両足を拭った。その脇を足音なく通り過ぎて、「床も拭くこと」と云った朔は、縁が淡緑に染まった、白い紫陽花を腕に抱いていた。


 髪を拭きながら、志信が畳の間をひょいと覗くと、朔は一瞥だけくれ、正座を崩さないでいた。膝の前には広げた新聞紙と、その上に並べられた白の紫陽花の切花が、骨董趣味の洋燈ランプのあかりの傍らで横たわっている。

 朔は、青い茎を垂直に立てて持ち、切り口から滴る水を見つめた。

「こういう夜はね、地中の根のほうが熱いんですよ」

「そんなことが」

「あるから云うのです」

 囁くに近いほどの声音で云い、夏でも乾いた指先で、茎を投げ入れにした。

 花器は白磁。

 薄闇にはっきりと浮かぶ白い直方体に、やはりきっかり区切られた線と色彩で、孔雀が描かれている。

「九谷焼なのですけれど。先の日展で入選した若い作家でね」

 志信の視線に気づいて、朔は花器の側面を下からするりと撫であげた。離れた指が宙でわずかに逡巡し、また花を持つ。孔雀の翡翠の彩が、絞られた燈のせいで輪郭を金に燃え立たせている。

「買い上げ?」

「まさか。別の作品ですよ」でも、こちらの方が気に入ったのです、と朔は伏し目がちの視線をその器に注いでいる。

 志信は髪を拭くのをやめて、朔の向かいに、花を挟むように片膝を立てて座った。

「…化粧水のひとつもつけたらどうですか」

「誰のをぬすめって云うんだ」

「買ってやったでしょう」

「欲しいとは云ってない」

 低く呟いた唇の、血潮の滲む紅が躙られた花びらのように歪む。朔は意に介さず、絽の擦れる微かな音を立てて、紫陽花を器に挿す。

 その向かいで、志信の蒼白い貌のなかで、淡く光るような灰色の瞳が、茂みの奥の獣のようにひたと朔を見据えている。

「愉しいか」

「ええ。花も茶も――女のすることだと云うものもおりますが、やってみれば愉しいものですよ」 

 唇を引き結び、黙った志信に、ちらりと一瞥だけくれてやる。ふい、と志信はそっぽを向いた。

「まあ。元は妻が通っていたのに、附いていっていただけですけど……」

「―――絵を描くよ」

 するり、と山猫のように立ち上がる。そのまま、裸足で部屋を出ていく。吸いつくような微かな足音が、母屋から遠ざかっていった。

 離室はなれは、戦後この屋敷を建てさせた元軍人の文筆家が、老境に至っての酔狂で改築させた画室アトリエである。持て余していたところを巧い口実に、志信にあてがった。

 春の青狼会展で、十六歳のふじ志信が入選したのは三年前のことである。

 ──画の中央に、近江女の能面をつけた女が立っている。衣は黒、深緑を重ねて重ねて、百年の眠りを覆う薔薇いばらの黒。──よく眼を凝らせば、芳潤な墨の上に凝った血のような絵の具で渦をまかせて、今にも吹き溢れそうなほど無数に蕾をつけさせているのがわかる。

 女の肌があらわになっているのはその顔と裸足のみで、その肢体にまといつく衣裳ドレスの輪郭はぼかされ、滲んだ墨が血のように、女の足元に細く流れて落ちている。

 「嵐が丘」と題されたそれは、地獄絵にも似て、その異様な黒の重力に眼球が絡めとられてしまう。そのおなじ黒を、十六歳の細い肩に女のように垂らした、まだわかい作者にも――

 当時の彼の師匠であった饗庭あえば画伯が、その狷介で鳴らす質にも関わらず、この愛弟子を方方に連れ歩いたのもひとびとを驚かせたのだったが──

 饗庭が、亡き旧友𨕫野しめの日出海ひでみの養子であった朔に、画の作者を引き会わせたことは、どのような意図があったのか今となっては解からないが。

 いつぞやは、このたびは、と挨拶を交わし、饗庭が、少年から青年に羽化する直前のような志信の肩を抱き、朔を紹介した。志信は、近ごろ掠れはじめた声で「──センセイ、なんだ」と呟いた。

 彼等の間でどのような言葉が交わされたかは定かでないが、やがて、薄く笑った朔のほうが、「今度、うちへおいでなさい、」と青年の肩に手を置いた。画室アトリエを腐らせていたのです、と微笑した口角の翳りに、志信は無言で肯いた。

 その半年ほど後には、志信は芸者であった母の家を出て、殆んど猫のように、朔の家に居ついてしまった。

 朔にを掻っ攫われた御大は、実に悔しがり、口惜しがったものだが、それを表には出さずにいるだけの分別マナー矜持プライドを持っていた。直ぐに、会員の子息から有望な十二、三の少年を探しだし、熱心に教えだした。

 ──その翌年の初夏、ある連歌の会合で、列席者たちは朔と同席する青年をみて、互いに目配せしあった。頑なに切りも束ねもしない黒髪に縁取られてより水際だった志信の容貌と、素知らぬ顔で常と変わらぬ端正、且つ絢爛な歌を詠んでいる朔――朔と同時期から参加を欠かしていなかった饗庭が、そのときに限り欠席していたのも場の関心を引いた。

 盆に盛られていた枇杷に視線だけ落としながら、参加者の女流歌人が、朔にだけ聴こえるほどの音声で「𨕫野先生は美しいものがお好きでいらっしゃる」と囁いた。

 ひやりとするような破礼句ばれくをひとつ詠んだきり、また枇杷を剥き始めた志信の姿を盗み見ながら、「饗庭先生も、さぞお気に入りだったのでしょうね。──」と意味ありげに残りを云わず、押し黙った。

 朔は筆をとり、落ち着いた様子で句を書きあげると、口元だけでひたりと微笑した。

「あれを飼われる孔雀だと思っているのなら、彼も眼が衰えたのでしょう」






 電話が鳴る。

 縁側から、裸足のまま庭におりて、紫陽花を折っていた志信は、少しの間黙って室内のほうを見ていた。鳴りやまないので、ぼとりと紫陽花を土に落とし、部屋へ上がる。その肌にかかる、猛る青葉の重なった影が、獣のたてがみのようであった。

「……もしもし、はじめサン?」

 家主の筆名ペンネームを呼ぶ、掠れた女の声がした。少し考えてから、志信は「留守にしています」とだけ答えた。

「あら、志信クンじゃないの」

 二度ほど会ったきりの、朔の妻の月子つきこは、さらりと返すとそのまま受話器の向こうで煙草に火をつけたらしかった。燐寸を力強く擦る音が、その函を磨いた爪の指でつまむ月子の姿ごと思い起こさせた。

「ちょうどよかった。実は、あなたの方に用なんだよ」

 志信は黙って、黒い受話器を握って立っていた。葦簾よしずごしの夏の日射しが、朱の平行四辺形の角を鋭くして、裸足のつま先の少し手前まで伸びている。

「今度、背景を描いてほしいのさ──舞台のね。詳しい話はまた追って連絡するけど、こういう話に興味はあるかい」

 肺を空にするように紫煙を吐いた月子は三十五の女ざかりで、戸籍の上では朔と夫婦めおとであるものの、この小路の古屋敷には殆んど居つかない。志信が彼女の活躍を知るのは大抵人伝ひとづてか、演劇を評論するたぐいの誌面である。つい先日も、気鋭の劇団が演る「新説・蜜のあはれ」を、彼女らしく、とことん単純野放図に、無国籍風に演出したことで話題を浚っていた。

「…興味はある」

 と答えながら、以前あいまみえた、白粉を塗らず、桑の実色の口紅だけをつけた彼女の面貌を思いだす。月子とはじめでつきはじめ、などとくだらない冗句で語られる芸術家夫妻、しかしその内実は公然の禁野である。

「いつ頃までか、に拠るけれど」

「そのへんもまだ判らないんだよね。来年の秋ごろにできたらいいんだけど。立て込んでて──まあ、春の会とは重ならないようにするさ」

 気取りのない相手と話していると、段々と地があらわれ、蓮っ葉な口調になっていく──月子はそういう女だった。志信も受話器を握る手の強張りが少しゆるむ。

「いいよ、描く」

「ああ、本当。有難いよ。でも朔サンに相談しなくていいの」

「別に。僕のやりたいと云ったことにどうこう云う人ではないから」

「そう。──ずいぶん甘いねえ、君には」

 燐寸を勢いよく擦る音が聴こえる。二本目の煙草なのだろう。燻されたようなハスキー・ボイスの、きみには、の響きが、夏の重い湿り気に混じって耳元に留まった。

「月子さん。朔さんはいったい何人と暮らしたの」

「さあ。その家で、でしょう。もう十年は一緒に住んじゃいないからね。結婚前にも……ン、どうだったかな。お気に入りは居たようだけど」

 深々と息を吐き出す音。暗闇に忽然と、小さく燐寸の火、燻る紫煙の渦──なぜだかその真ん中を、蝶が燃えて墜ちてくる映像が眼裏に浮かんだ。

「とにかく、私に訊かれてもね。憎みあってこそいないもの、名ばかりの夫婦だ。──時々、七夕程度には会っちゃあいるけどね」

「……どの相手も皆、今はどうしている」

「だから、知るわけないんだよ。悪いけど──朔サンはが好きだからね、モノになるかわからないような幼いのばっかり、ああでも一人か、五年くらい前まであの人と暮らしてて、そのあと、彫刻だか陶芸だかでちょっと売れ始めたのがいるよ」

 柔らかいうちに骨の髄まで丁寧に砕いて啜って、それでとうが立ち始めたら──、と、独白じみて零した女の声が不意に止む。志信は一言も返さず、その沈黙から一心に何かを聞き取ろうとしているように見えた。

「……君ほど、若くして成功しそうな子は初めてだよ」

 月子は、志信が十九になることを知っている。

 志信が短く息を吐いたのを聞き取り、月子は肺を空にするような長い息をついた。

「あのひと、ほんとうに、いやぁな感じのする色男だからねぇ」

 あの桃花眼、見ていると本当にしんからぞっとする、と月子は呟いた。

 朔は四十路の半ばだが、確かに妻の云うように、眼に印象深いものがある色男だった。志信のような、触れなば切らん、という剃刀のような眼ではない。

 その、花の闇でひやりと光る蛇の眼のような剣呑さが、──月子に云わせれば──厭な感じ、なのだ。

 志信は受話器を置いた。ほんとうはもう少し話があったのかもしれないが、ふたたび月子から掛かってくることはなかった。

 開ききった梔子が、白い花びらの縁からたらりと茶色く萎びていく。それでも土に還ろうと自ら落ちることなく、猛々しく膨潤していく緑に凭れかかり、濃密な繁みのなかで、もの狂いの香気を凝らせて、腐っていく。

 日射しの色はいつの間にか一面に朱が滲み、風のない夏の宵が迫っていた。





 夏の夜の野放図な甘さ、その匂いで噎せ返るほどの庭が、開け放した障子の向こうから、画室を覗き込んでいる。

 もとは月見堂であったのか、と推し量れる、窓の多い離室はなれは、腐りはじめた梔子の匂いが遠慮なしに雪崩れ込み、揺蕩っている。

「随分大きな絵を描くのですね」

 拡げられた絹本を見て、朔はおとがいに指をあてた。

「いったい、なにを描くのです」

 あたり一面に、下絵を描き散らされた半紙が散らばっているのを踏みながら、志信はゆっくりと朔のほうへ寄ってきた。

「まだ決まっていない」

 そう云い、立ったまま真っ白な絹を見下ろした。朔は周りの下絵に浮かび上がる狼と蝶の画題モチーフを見てとったが、黙っていた。無造作に髪をかきあげ、志信は呟く。

「題名だけ思いついた」

「おや、君にしては珍しい。なんと云うのです」

 問いながら、朔は、屈んで、風に嬲られる糸杉とその翳に浮かびあがる眼と牙を眺めはじめた。――吠える獣――荒れる風。裂かれ、千々に吹き散らされた筆致のなかに、ふと燃えて落ちる蝶の輪郭だけを見る。志信のかすれた声が降ってくる。

「愛の咆哮、かな」

 次の瞬間、温い香気を裂いて、志信が大上段から振り下ろしたものが振り向きざまの朔の頭をった。朔は絹の上に倒れ込んだ。

 志信は、黒髪が炎のように縁取る白い貌で、倒れた朔を真上から見下ろしていた。

 その手には、白磁の器。

 画室の中央に敷かれた、棺の長方形に似た白絹──そこに墨の梅花のように、血が滴り落ちた。

「志信くん──君──」

 切れた顳顬こめかみを押さえながら、朔が低く呻くのを、青年は刃の瞳で見下ろしている。乱れた息の合間に、朔は低く呻くように続けた。

「ひとの──他人の作品を、そんな風に扱うなんて、君はね。――解からないのですか」

「解かっているからやる」

 厭に平坦な、奥行のみえない闇に似た声色で志信は云う。

 灰色の瞳は今や妖刀の切っ先であった。それが、白磁に描かれた孔雀の羽をひたと捉える。

「僕に仇がいるのなら、僕の絵の上であなたを穢すくらいの覚悟を持つがいい」

 志信は立ったまま、片手を高く上げ、梔子がほどけるように指を開いた。角から床に落ちた白磁と孔雀は、大きな花びらのように割れてあたりに飛散した。

 志信は、朔の体を跨ぎ、月光を湛えた白い絹に翳を落とす。

 そのまま筆を手にとり、血痕に穂先を浸した。


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