ガラスコップの美しい食卓の上 Ⅲ (単発)

「この部屋でウツクシイものって、そのコップくらいだよ」

 ジュンが立ったままそう言い放つのを、倒れた扇風機を直しながらおざなりに俺は聞きながす。

「美しいってなんだよ、キレイとかじゃなくて」

 スイッチをオンにしても、壊れた扇風機はずっと左ばかり向く。カタカタと鳴る音が大きくなるのに負けないよう、純が声を大きくした。「掃除しろよ」

 俺は幼なじみを無視して、扇風機の脚を蹴る。ぐらついて、羽が回る音がより大きくなる。かたかたかた、何かがつっかえているような音。この部屋は換気扇も壊れていて、何もかも少しずつ嫌な音を立てる。舌打ちをすると、軽く笑われた。

「いや、捨てろよ、もう」

「回るは回るんだよ」

 思ったより低く、恨み節のような声が出てしまい、純が爆笑する。こいつのツボの浅さは尋常じゃない。小学生の頃からそうだった。ガラスコップの脇に、昨夜から捨てていないコンビニ弁当のパックが成る程汚い様子で置かれっぱなしだ。

「ねえ、ケンガンアシュラの五巻どこ?」

「あー、お前が今立ってる地層の、……二世代くらい掘ったとこ」だと思う。そう付け加えると、ぜったい俺に掃除させようとしてんじゃん、と純は騒ぐ。無視して、俺は「軍鶏」の一巻だけを繰り返し読む。他の巻はどこかへやってしまった。この部屋は泥の堆積に似ている。なんの価値もない滅びるだけの地層。

 すぐに騒ぐのをやめて、存外おとなしく本を掘り起こし始めた純が、数分して見つけたでかめの虫の死骸に奇声をあげる。同時に、夕暮れが加速する窓から電車の走行音が響き、奴の文句はかき消された。

「……お前、マジでそろそろ慣れろよな。虫くらい。俺ン部屋、越してからずっとこんな感じだろ」

「むりむりむり、バルサン百個焚けよ。こんなん、春日の部屋くらい汚いじゃん」

「え、オードリーの?」

「うん」

「なんでお前オードリーの春日ん家の汚さ知ってんだよ」

「観したじゃん、Creepy nutsのMV」アレ春日の部屋で撮ってんだよ、と、ドヤ顔で言う純の、笑うと無くなる目もとを見るともなく見る。なんにも見えなくなりそうな笑顔。

「あー。なんか前に言ってたやつな」

「ショータローってほんと俺の話覚えてないよな」

「だってお前と趣味合わねーんだもん、音楽も漫画も」

 それ初めて聞いたんだけど! とまた騒ぎだす幼なじみに、俺は慣れきったうんざりの表情をして湿った畳に寝転がる。日に焼けたイグサにじかに触れるのはもう頭と足だけだ。服や教科書や、いろんな要らないもので敷かれた布団もどきのなかに、充電が切れそうなスマホが落ちていた。メッセージアプリの通知が届いて、画面に表示される。

「あ。今日バイトじゃん、ショータロー」

 アディダスのスニーカーが一歩、視界に入ってくる。真新しい白いゴム底の下には、コンビニの茶色い袋。そこに、上から青いマフラーの裾が垂れ下がってくる。顔を覗き込まれて目があうのが嫌で、俺は目を閉じた。

「風呂入った?」

「はいった」

「ヒゲ、やばいけど」

「……今から剃る」

「遅いよ。もう時間だよ」

 閉じていた瞼をあけた。アディダスのつま先は、影も形もなかった。俺だけしかいない部屋は薄暗く、湿っていて、扇風機の異音だけが響いていた。

 真新しいアディダス、青いマフラー、それと学校指定の冬物のコート。

 この四年間ずっと、見飽きた幼なじみの恰好だ。

 純は四年前の冬に死んだ。交通事故だった。

 顎から首筋に伝う汗を、拭きとることもせず、俺は畳に横たわったままでいる。手足を捕らえる晩夏の湿度は陰気なくせに暴力的で、どこへいっても逃げられない。

 幽霊とは実在するのか、それとも俺が壊れつつあるのか、俺は純がこの部屋に現れ始めるまで、ずっと後者だと思っていた。

 春日の部屋が映っているというCreepy nutsのMVも、俺は知らない。少なくとも、純が生きて俺の隣にいた頃には観せてもらったことはない。けれど俺は、そのうちに純のせいで、その歌を口ずさめるようになる。

 純がこの部屋で読んでいるらしいケンガンアシュラも、俺は買った覚えがない。どんな話かも知らない。純は、そんな俺に、巻を一冊読み終わるたびに感想を話してくる。

 俺の知らないことが、この部屋に、俺の脳に、少しずつ浸潤してくる。俺の脳から生まれたものが、俺の知らないことをはたして見て、聞いて、話すのだろうか。

 とりかえしのつかない世界の変容が、このゆるやかに死んでいく部屋では起こっているというのに、俺はその流れに身をまかせて澱みに沈むことしかしない。

 幽霊のみる世界と、生きたまま腐っていく俺のみる世界は、どちらがほんとうなのだろう。

 純が美しいと言った、澱みのなかのガラスコップを見つめる。それは赤い夕暮れに照らされて、確かにそこにあるように見える。

 手を伸ばして、爪の先でそれに触れる。かつんと感触が伝わってきた。

 俺が触れても、ガラスコップはそこにあって、きらきらとつめたくて美しいままだった。

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