ガラスコップの美しい食卓の上 II (単発)
key words
・美しいとは視覚的な情報であるという偏見
・「ガラスの動物園」に捧ぐ
午后三時のすこし前、空気はあたたかくて乾いていた。
朝の雨はとうにやんで、風がときどき吹く。こんな日はフレッドにとってむずがゆい日だ。外へ出てみたくてたまらなくなる。
濡れた土の匂いに芝生と葉っぱの匂いが混じると、夏の始まりと同じくらいわくわくする。それを吸いこむために胸をはると、額や頬にシャワーのような太陽の光が降ってくる。今の季節はスイカズラやモッコウバラがよく咲いていて、一日じゅう庭にいても飽きない。
知らない街の窓辺で、ふと、生まれ育った家の庭が恋しくなった。
ぺたり、と桟に頰をつけると、古びた木の表面の感触がした。ランプシェードにさわったときとおなじ、優しい埃の匂いがする。軽く指でなぞると、さらさらと隙間から入ってきたらしい砂が転がった。
「セイ、掃除してない」
独り言を声に出して、しん、と静けさだけが答えてくる。今は留守にしている家主が、いつも「忙しいんですよぉ」とくわえ煙草で云う声を、頭のなかで再生した。
「ごめんください」
不意に、遠くから声がした。フレッドは少し首を動かして、窓辺から音の出どころを探した。玄関の方だった。ベルは鳴っていない。壊れている、と聞いたことを思い出した。
お客さん、と呟き、家主不在に気づいて少し肩が強ばる。自分が応答した方がいいのだろうか。それとも、ここはセイの部屋なのだから、セイじゃない自分が出てはまずいだろうか。
迷っているうちに、もう一度声がした。
「ごめんください」
意を決して、フレッドは立ち上がった。いちおう、窓際に立てかけてあった杖をもって、ふらふらと壁を伝って、玄関先まで出ていった。部屋のなかより少しだけひんやりとして、日陰と同じ温度をしていた。
手探りで把手をみつけて、引くのか押すのか迷ってから、軽く押してみた。正解で、重い金属の蝶番の音がする。扉の向こうで、靴が地面と擦れる音がした。…扉のすぐ近くに立っていたのだろう。
あたたかいバターとオレンジの匂いが、ゆっくりと少し低い位置からただよってきた。
同じ高さから、年老いた女性の声がした。
「あなた、セイのお友だち?」
迷って、素直に答えた。「はい」──そう云えと云われていたから。セイは今日、夕方まで仕事だ。朝、コーヒーだけ飲んで出ていった。台所にいくと、まだコーヒー豆の匂いがする。
「そう、やっぱり。セイから、ひとり暮らしではないと聞いたことがあるわ」
俺はあなたのことを聞いたことはないけど、と心のなかで呟く。オレンジと、乾いた人の肌の匂いが少し強くなった。
「入ってもいいかしら」
少しだけ開けていた扉が、ぐいと外へ開こうとする。むりに引っぱって開けようとしているようで、反射的に抵抗したくなった。すぐに扉は開いて、フレッドの横をがさりとごわついた布地が通り過ぎる。長いスカートだった。
「これ、あの子が好きなの。昔からね。
まだあたたかいから、テーブルに置いておくわ」
これ、と云われてもフレッドにはわからない。バターとオレンジの匂いがする、「これ」なのだろう。──セイが好きなもの。フレッドは不安になった。バニラ・アイスとチョコレート・リキュール。映画とおしゃれとテニス。それしか知らなかった。
衣擦れの音がこちらに近づいてきた。どこに顔を向ければいいのかわからなくて、俯いたままで少し首を左右に動かしたが、まったく違う方向から声が聞こえてくる。
「あなた、言葉はちゃんとわかるのよね」
う、あ、と言葉に詰まって、説得力がないなと思いながら「…はい」とだけ返した。馬鹿にしないで、とは言い返せなかった。目が見えないと、文字はわからないから。
「私はセイの祖母です。話を聞いたことはある?」
「……す、少しだけ。セイは祖母に育ててもらった、と」
「そう。私はあの子から、あなたの詳しい話をほとんど聞いたことはないわね」
もっとも、最近は電話もなかなかかけてこなくなっちゃったけど──少しだけもたつく歯の少ない喋り方、皮膚や吐息に混じる空気を、薬局の匂いだと思った。この人は薬局によくいくのだろうか、と考えて、フレッドは思わず眉根が寄った。彼は薬局と病院が苦手だった。この街にも大きな薬局がある。交差点の角の、新聞の売店がある隣──あの通りをもっと下っていけばパン屋がある。そうだ、パンの匂いを思い出そう。あれは好きなもの。好きなもののことだけ考えていればいい。
フレッドは心のなかで、好きなものの匂いを指折りあげてみた。焼きたてのパン、モッコウバラ、スイカズラ。バニラ、シナモン、チョコレート。そこへ、不意にオレンジの香りがぱっと射し込む。苦味を帯びた──べったりと鼻に残る──。
「あなた、いつからここにいるの」
声がする位置が変わった。歩きだす音がする。部屋を歩いている。フレッドは戸惑いながら「い…っかげつ……くらい、前です」と答えた。春の終わるすこし前、セイから「うちに来ませんか」と手を取って言われたのだった。部屋を借りたんです。もうホテル暮らしじゃありませんよ──笑った彼の声と、手のひら越しの指の熱さを覚えている。
「一ヶ月。そんなに」
長いため息が聞こえた。つま先を軽く引きずるような足音は、居間をぐる、ぐる、と、円を画くように回っていく。ときどき立ち止まっている。
自分の背後──斜め後ろ。掠れた声がゆっくりと耳の後ろの骨を撫でる。
「あの子、ガラスの細工物を
そこにあるのは確か、西側の窓と、鍵のかかった戸棚。なにが入っているのかは、フレッドは知らない。知っているのはその表面だけ、塗料の剥がれた部分のささくれ、手触りの変容──それを撫でては、セイと笑うのだ。近所の公園にある、古いベンチそっくり、と。「"私の部屋"公園のベンチ」とセイが呼ぶ。
老女の声が響く。
「あの子がうちにきたばかりの頃、うちの居間に飾ってある、ガラスの仔鹿をほしがったの。初めてなにかをほしがったものだから、あげたわ。そうしたら、少しずつそういうものを蒐めるようになった。……今もそうなのね」
鍵のかかったガラス戸を、指と爪が擦る音がする。瞼を引っかかれるような感触に、フレッドは体を揺すってイヤイヤとする。
「これはイルカね。これは…キリン。隣はうさぎかしら。……これはきっと
そんなこと、セイは一度も教えたことはない。セイが自分に言わないことは知りたくない。フレッドは心の耳を塞いだ。バニラ、シナモン、チョコレート。靴音は甘ったるい呪文を貫通して耳の底を叩く。
「…きちんと掃除をしてるのかしら、それとも料理をしてないだけかしらね」
フレッドは、危ないから入ってはだめ、と云われた台所にある戸棚。そのガラスの扉を、きっと女の手は触れて、そして無遠慮に開けるのだ。ほら、蝶番の軋む音がした。
「やっぱり、ガラスが多いのね」
きゅう、きゅう、と、コップの縁を、乾燥した指が擦る音がする。高く、低く、ピアノの音とも歌声とも違う、波うつ音階はたしかに美しいのに、耳から入ってくる音が首に絡まって息苦しくなる。
「こんなにコップも蒐めて。これはフランスのグラスかしら。…ひとり暮らしなのに」
知らなかった。杖を握ると、手のひらが汗ばんでいた。強く握りしめるほど、杖がすべって落としてしまいそうだった。
「ねえ、フレデリックさん」
突然、よそよそしい響きの本名を呼ばれて、フレッドは体をこわばらせた。その名前で呼ばれると、この部屋に来る前の、冬の記憶が甦る。
「あなたのことは知っているわ。ご両親も心配してらっしゃるんじゃないかしら」
薬の匂いが強くなる。衣擦れの音が近くなる。バニラ、シナモン、チョコレート。「このあいだ、街であなたのお母さまを見かけたの。やつれてらしたわ」もったりした、歯の少ない口のくぐもり。バニラ、シナモン、チョコレート。「…むずかしい言葉はよしたほうがいいのかしらね。あなたのお母さん、あなたを探して、疲れているのよ」やつれるの意味くらいわかる。叫びと涙が出ないように、咄嗟にフレッドは耳をふさいだ。掌から杖が落ちる。からんからんと掌の向こうで音がする。──バニラ、シナモン、チョコレート──鼻の奥がつんとした。
「ずっとうつむいてばかりで。──あなたみたいな方にとっては、ひとりで外に出るのは恐ろしいことでしょう」
フレッドは耳をふさいだまま、ピアノの音を思いだそうとする。老婆の指で擦られた、ガラスの音が邪魔をする。バニラ、シナモン、チョコレート── オレンジと冷めたバターと薬。
「もう、お家にお帰りになったらどうかしら」
「フレッド──フレッド!」
街灯がまたたきはじめる頃合い、伸びのある声が玄関先で響く。
抱きかかえた花束──モッコウバラとミモザの枝。明るい黄色が火花のように放射線を描いて、セイの黒い髪に金を散らすのを、待ち人は見ることはないが。
「ただいまァ。クソ、あのスコッチ野郎のせいで──遅くなってごめんね、フレッド」
酒精と花粉が混じったコロン、慣れた匂いがいつもよりうわついて、足音も口調も少し乱暴だったが、暗いままの部屋から返事が聞こえない。構わず、セイは矢継ぎ早にまくしたてる。
「朝からずっと待ってくれていたんでしょ。私もはやく帰りたいって言ってたのに、監督の虫の居所が悪くって、リテイクは終わらないし、なのにサイモンの野郎が名優気取りで演劇論なんて語り始めまして──…、」
小洒落たジャケットを脱ぎ捨て、手首のショパールを乱暴に外しながら、彼はランプシェードの淡いオレンジの光をともした。その途端絶句する。
床に転がっている杖を拾いもせず、朝からこの部屋で待っていてくれたはずの恋人が、ダイニングテーブルの前に突っ立っている。その肩が震えていて、金髪がふらふらと揺れていた。
「どうしたの、フレッド」
盲目の恋人がいったいなにをしているのか、セイはテーブルを回って確かめた。
フレッドは、拳で、テーブルに置かれた手づくりらしいフルーツケーキをつぶしていた。それから、手づかみでつぶれた生地を握り、涙といっしょに口に押し込んで噛みながら、フレッドは大きな声で云った。
「うちには帰らない!」
セイは花束と鞄を放り、ふたつは杖の近くにぼたりと落ちた。そのまま、彼はフレッドのケーキを潰そうと強ばった両腕ごと、包むように抱きしめた。
「セイ、セイか? そこにいる? ――帰らない。俺、帰りたくない」
「帰らないで、フレッド。私がさみしくなるから」
指の痕がついたケーキの残骸を見下ろして、セイは目を細めた。それを脇にどけ、ぽんぽん、とフレッドの背中をかるくたたく。
「……どうしたんですか。昼間、何かありました?」
しゃくりあげながら、フレッドは首を縦と横の両方に振った。視線の定まらない両眼からはとめどなく涙がながれて、顔中が濡れていた。
「セイ、どうしてガラスが好きだと教えてくれなかったんだ」
「………」
誰から訊きましたか、と唇の動きだけで言いかけて、セイは黙り込んだ。鞄を拾いあげてハンカチを探しだし、フレッドの赤くなった顔をぎこちない手つきで拭いてやる。
「ガラスの動物とか、コップとか。あつめてるんだって」
「あつめてた、です。今はやってませんよ」
苛立たしげに髪をかき混ぜる音と声色に、フレッドが首をすくめたのに気付き、セイは自分自身に呆れた、という表情でかぶりを振った。
「君と会った頃にはもうやっていなくて。仕事が忙しくなったから──だから君に教えるのも忘れていたんですよ。だいいち、君に会ってからの私を知ってるでしょ。
フレッドは少し首をかしげた。それから、よくセイが口にする愛のフレーズをかみ砕いて理解して、濡れた頬にえくぼを見せた。「ほんとう?」
「本当。手、洗いましょうか」
手首をゆるくとって、洗面台へ連れていく。酔いが覚めたセイにとっては、記憶を強く刺激する匂いが、恋人の手から香った。バターとオレンジのべたつき、それによって想起される、子どものころの記憶――祖母のエプロンからいつもしていた乾いた植物と、薬の匂い。
「余計なお世話を」
なに? と、水音にまぎれたセイの呟きを聴き逃したフレッドが声をあげる。答える代わりに、その背中に体を寄せた。
「母が、俺を探してるって」
タオルで手を拭きながら、フレッドは小さな声で呟いた。ココアをいれながら、セイはため息をついた。
「探してるってことはないでしょう、私と暮らしてることは伝えてあるんだから」
「でも──」
「君のご両親を説得するのに、どれだけ苦労したと思ってるんです。…いくら眼が見えないと言ったって、君はもう成人して、自分で働いているんだから」
「最近は…そうでもないけど」
テーブルの表面を指で叩きながら、フレッドはゆらゆら頭を動かす。音楽に身を任せているときと不安なとき、両方の癖だった。
「……祖母はすこし、考え方が古いんです。いい人…ではあるのですけどね」
セイが食卓へ戻ってくると、フレッドは運指をやめて、首を動かしてセイがいそうな場所に顔を向けた。トレーを置く音に、大人しく手をとめて待っていると、ごと、ごと、と二つのマグカップが置かれる音の後、こと、こと、こと、と少し硬く、軽やかな音が続いた。
「セイ?」
声をあげたフレッドの手を、セイの手がとる。「さわって」
導かれて、指先が触れたのは、ひんやりとした器の縁だった。その曲線をたどり、円の直径の大きさから、それがガラスコップだとわかった。セイの含み笑いが聞こえる。
「つめたい?」
「つめたい。でも、すぐにあたたかくなる」
縁から指をおろし、わずかに曲面として彫られた部分を指の腹でなでると、きゅっと音がした。
「なめらかだ」
「それが私のいちばん好きなかたち。落とすと壊れてしまうけど」
あなたなら大切にしてくれるでしょ。ココアの香りのなかで、セイはそう囁く。ああ、これも好きなものだ、とフレッドはコップを両手で包む。
「バニラ、シナモン、チョコレート。ココア、セイの手と声、それからセイのガラスコップ」
「また君の好きなものですか」
「うん。今、これも好きになった。もっと早く好きになりたかったな」
「それはよかった。私も、君がそうしているのを見ると、──」
セイはふと黙り込んだ。フレッドも黙って続きを待った。
やがて、ガラスコップが体温にすっかりなじんだ頃、もう一度手の甲に優しい指先が触れて、今度はしっかり包み込んだ。
「──美しい景色だな、と思いますね」
↓この話のCPです。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054888916371/episodes/16816927859401691512
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