ガラスコップの美しい食卓の上 I (単発)

同人タイトルスロット様よりタイトルをお借りして、共通タイトルでフォロワーと小説を書きました。


key words

・静物画のタイトル的感覚

・文法の不思議について

・食卓をコーディネートするという形での愛情




果物フルーツのある静物」不意に青年は云った。

 開け放たれた障子から、午后の陽光が斜めに射し込み、奥の洋室まで届いていた。

 長い木の食卓、置かれた椅子に片膝を立てて、青年は腰かけている。

 その向かいで、卓上を布巾で拭いていた壮年の男が、少し顔をあげた。視線の先で、青年の手は、卓の端に置かれた籠に伸ばされる。

 籠は籐で編まれた小さなもので、なかには枇杷がいくつか入っていた。そのうちのひとつを手に取る。

「ビュフェの絵」手のうちの枇杷を転がして青年は頬杖をつく。「静物画の題名」

「ベルナール・ビュフェ?」

「そう。──別に彼に限った話じゃないけど、静物画の題名タイトルというのはどうしてああなんだろう」

「それ、貸してください。皮むくので」青年の掌中でぬるみつつある枇杷の実を、ゆるりと手を延べて催促しながら、男は付け足す。「──絵の話ですか。生憎と、詳しくないのですがね」

「詳しくなくとも良いよ。湯沸しのある静物画。陶器と洋梨のある静物。雪のある風景──」青年は、枇杷を手放したその指先で、テーブルの木目を鍵盤のように叩いた。──小指と人差し指の爪が長い。黒髪を白い衿に流して、濃紺に細い金の格子模様のネクタイという、扮装いでたちの退屈な清潔さに対して、不揃いな爪と、光る瞼の下の灰色がかった瞳が、野放図な夕立のような生命力を青年に与えていた。

 男は、彼よりも乾いた指で、枇杷の実のをほんの少しナイフで切り落とした。透明な果肉があらわれ、もう少し覗きこめば奥の種子が黒く透けて見えた。重い腕時計の似合う手の上で、ふるりと果実が揺れた。

「"なにか"ある"なにか"──あるいは"どこか"。変だろう、どうして林檎ある風景じゃないんだ」

 男は黙って、台所に置かれた細長い楕円の、白い皿の上に枇杷を並べていく。その指先が、果汁で甘く湿っていくのを見つめながら、青年は人差し指をまっすぐ伸ばした。

「この"の"は、いったい何ものだろう」

 光る爪の弧が、男の黒い瞳に反射した。眉骨の落とす翳の下で、短い睫毛がまばたく。指で男の視線を捕らえようとするように、注意深く手を動かす。

 男は枇杷を皿の上に並べ終えると、包丁を流水にさらし、ゆっくりと立てかけた。それから、青年の方へ向き直ってテーブルに両手をついた。──瞳と同じ黒いネクタイが垂れて木目を撫でる。男は弔事の帰りなのであった。

 ネクタイの先を指ですくい、青年は続ける。「でもそうして分解していくと、言葉なんて皆正体を失っていくね。意味のない文章に変容していったとしても、それが美しいことだってある。まるで違う色の石を嵌め込んで、色合いを試すようだ。それでも"言葉"とは成立するのかな──」

 流暢な口振りに反して声色は単調である。自らの言葉にそもそも興味がない、という風情で、退屈そうにネクタイを弄び、男が軽く身を引くと初めて、口角だけを少しあげた。

「これは文法の話さ。あなたの得意分野だよ」

「――今日はよく話すと思えば」

 返事をしながら、男はばさり、とクロスを拡げた。波打って、一度青年に背を向けた白い布には染みひとつ刺繍ひとつない。空気と戯れてからおりてきたクロスを、しっかりと角を合わせて敷いた男は、ゆっくりと顔をあげた。

「……君ねえ、作家が皆んな文法に詳しいと思うのですか」

「画家よりはね」

 肩をすくめた青年の前に、男は、細い枝が生けられた、丈高い陶の花器をことりと置く。その位置を少し調整してから、椅子を引いて向かいに腰掛けた。

「──嵌め込んだ、という表現はあながち間違いでもないかもしれませんね」

 蕾をつけた枝が、繭玉のような形の影を落とす下で、男は指を立てた。

「まず、君の云っていることは、が・の交替と呼ばれる現象です──まず例を示しますと、『フルーツのある食卓』と『フルーツがある食卓』。これはどちらも同じ意味になりますね。次に、『が』を使った二文を示します。

 A)フルーツがある食卓は美しい。

 B)フルーツがあるから、食卓は美しい。

 ──このとき、『が』を『の』に変えても成立するのは、Aの場合だけですね。"フルーツのある食卓は美しい"──これは、『が・の』を含む文節が、『食卓』という名詞を説明する修飾節であるのです。対して───」

「── つきたちさん、それと嵌め込みとどういう関係が?」

 男はふ、とほんの軽い調子で失笑した。「もう飽きましたか」

「若さとはそういう性質なんだろ、あなたが時々云うように」

「生意気を」

 朔とよばれた男は立ち上がり、枇杷を並べたガラス皿を、花器とその影と、調和がとれるように、テーブルの上に誂える。そのあと、台所の隅に用意されていた、もとは透かしの入った食器たちを飾るために折られたのだろう、鶴の形をしたナプキンの羽を片方ぐい、と卓面におしつけた。その上に、さらさらと万年筆をはしらせる。

「嵌め込み、についてはね。つまりこういう私の連想です――時枝文法というのがありまして。簡単に云うと、日本語の文というものを、階層的に捉えて、基本的な型式を"入れ子構造"だと仮定したものです。──志信しのぶ君、中学校行ってました?」

「ここは日本国だが」

「授業をまじめに受けていたかという意味です──まあ、かまいません。品詞だとか、文節だとか、そういう文法を習った記憶はありますか?」

「まあ、それなりに──曲がりなりにも共通試験を受けた大学生であるからね」

「ああ、そう云えば君は大学生でしたね」

「あなたに演技の才能は無いようだな」

 男は肩をすくめ、万年筆の先でトン、と白い紙ナプキンを叩いた。

「学校教育で教えるのは橋本文法をベースにしたもので、時枝文法とは異なる考え方をしています──まあ、これは今いいでしょう。時枝文法はね。単語たちのうち、名詞や動詞などの"ことば"以外の助詞や助動詞──つまり、が・の、などの"辞"を、にしてしまうのです」

 "フルーツ"と"ある"と"静物"の三単語を、大きな四角で囲い、そこに実際、把手のようなひと回り小さな記号をつけ加え、助詞をくるむ。


[[[フルーツ]の> [ある]φ][静物]φ]


「このφは零記号。詞がある以上、見えなくともそこには必ず辞があるとして、便宜上おかれた無の辞です──」

 こういった題名タイトルは文章よりも体言止めが多いのですが、と話し続けようとした男は、ふと言葉とペンを止めて、青年の顔を見た。もとより彩度の低い面立ちのなかで、墨を滲ませたような瞳を、真正面から灰色の瞳が受けとめる。きっちりと角に合わせられた白いクロスを、軽く引っぱりながら頬杖をついていた。

「志信くん、この話ももう飽いてしまいましたか?」

「朔さんはこういう話になると饒舌おしゃべりになる、と思っていただけだよ」聞いてはいた、と、視線を卓上に落としながら青年は呟く。「つまり、"が・の"は、条件付で同じ引き出しの把手になりうるということ──ドアノッカーを獅子と龍とで付け替えるように。なるほど、嵌め込みだ。意図デザインによっては、上手に噛み合わない場合もあるのだからね。……」

「ええ。その意図の表現主体の存在を、言い換えれば我々は常に意識せざるを得ないというのが言語というものを扱うときに面白いところですけれど……」

「表現主体か、表現主体ね――つまり、デザインした僕のことを考えざるを得ないってことだろう」

「まあ、間違ってはいませんね。君が言語を用いて何かが美しい、あるいは醜い──などという情報を発信したとき、私はその言葉が君という主体から発されているということを意識せざるを得ない、それを主観性と定義します」

「ふうん。……」

 志信は少しの間、あいづちを探している風だったが、ついに黙り込んだ。かと思えば、だしぬけに両掌を拡げてテーブルの上につき、軽く身をのりだした。

「今、僕の眼の前にあるもので、引き出しを組み替えてみせようか」

 上目遣いになると、睫毛の陰に沈む瞳の表情が読みにくくなる。志信の謎かけの誘いのような言葉に、朔はゆったりした口ぶりで「おや、やってみてください」と受けた。

 二人の向かい合う、午后の食卓の光景はこのようであった。白いテーブルクロスの上には、斜めの枝と、皿の上の一列の枇杷。その向こうには、きっとここへ並べられるはずの折り鶴と白磁の食器、そして洗い立てのガラスコップが午后の陽光を透間から注がれて燦めいている。

 志信は、爪の伸びた人差し指で、その光をさした。

「"ガラスコップの美しい食卓の上"」

 朔は片方の眉をつりあげると、少し笑った。万年筆を置いて、ガラスコップを手に取り、食卓の真ん中へ置く。水滴とガラスの表面で光が四方へ散り、反射と屈折のそれぞれが重なりあって食卓に光沢のようなものをもたらしていた。

「──成る程、またも題名タイトルなのですね。君らしいといえば君らしい」

 朔は万年筆を走らせる。川面の墨のような筆跡を、洋墨インクの匣が囲って、入れ子細工を構成していく。

 [[ガラスコップ]の>[美しい]φ][食卓]の────

 大きな音が響いた。

 志信の椅子は勢いよく倒れ、朔は大きな音を立てて卓に手をついた。二人の影は繋がっていた。――志信が、朔のネクタイをつかみ、無理やり引き寄せたのだった。

 結び目近くで握り込まれたネクタイはぴんと張りつめ、鋭い輪郭の鼻先が触れあうほどの距離で志信は朔の目を覗きこむ。

「僕を見ろ」

 ぽつりとひと言、低い音が響いた。人差し指の爪が、黒い絹に食い込んで白く光る。遠雷のようだった。夕立のさなかの突如とした閃光、稲妻──―卓上で倒れたガラスコップが、うすら鈍い音を立ててゆっくりと転がっていく。

「その、ことばを見るのとおなじで僕を見ろ。僕らしいだとか、表現主体だなんてまだるっこしい、今あなたの前にいる僕の眼を見ろ」

 灰色の瞳が、嵐を突き抜ける野火のように不思議と縁からあかるみ、ぎらついていた。その中心の瞳孔は、光も反論も吸い込みそうな黒だった。

 強制的に前のめりで腰をあげさせられ、朔は眼を細めて肘をつく。苦しげな表情の上に、日が陰るように微笑みを浮かべた。

「……拗ねていたなら、最初からそう云いなさいよ」

 片手を伸ばし、食卓から落ちそうになったガラスコップをとどめた。転がったあとのテーブルクロスには、水滴が、泪雨のような淡い灰色の跡を残していた。



key words 解説

・静物画のタイトル的感覚

 ⇒「○○のある●●」っていうタイトルの絵画おおいけど、これなんで「○○が~」じゃなくて「○○の~」なんだろう…という連想的疑問を抱いたので。


・文法の不思議について

 ⇒上より、辞が変わっても成立する文章の構成について考えていたら、入れ子構造を成す「時枝文法」を連想した。


・食卓をコーディネートするという形での愛情

 ⇒愛しい相手のために食卓を用意したり、言葉を選んだり、間接的な配慮やもてなしを人間はするものだけど、それがまだるっこしいと感じる激情的な感性の人もいるよね。という話。特に若い子。


・時枝文法の解説の一部は代用の記号で表現しています。実際にどのような感じで表現されているのかは画像検索すると出てきます。この文章における解説が正しいかは保証しません。

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