ラズベリージュースと黒い幻想 (単発)
「血って、云うほど赤くないんですよね」
ざらざらのテープで、手の甲にとめられたマシュマロのようなガーゼを、骨ばった手で押さえながら、ベッドの上の男は首をかしげた。細くて長いから、大きく傾けると、花がくたりと萎れたようになる。
「こう、ここ。両腕刺したんですけど、なかなか血が出なくて。結局手の甲から採血したんですけど、時間がかかって。参りました」
こぶしを握って、両腕の肘の内側を無防備にみせる。薄青い、静脈なのか陰影なのかわからない色彩が、やっぱり骨ばっている腕の皮膚の下を、そっと這っている。
「……シリンジって云うんですかね。試験管みたいな容器に、血が、とくとく溜まっていくんですけど。これがまあ、赤黒いというか、葡萄色というか。びっくりしました」
「だって、お前、それ静脈の血だろう。そりゃあ、黒いよ」
冷蔵庫を開けながら、もう一人の男が云った。男は歳上で、裸で、背中には爪痕があった。月の光が、バターになって彼の肉体の表面を溶けて流れていくように、その輪郭は仄白く輝いていた。
「……女みてえな冷蔵庫」
裸の男は低く笑って、冷蔵庫に貼られたカレンダーを指で弾いた。カレンダーにはゴヤの黒い絵画が印刷されている。
「水にキュウリだの、ミントだの浮かべて……うちのかみさんもやってるよ、体にいいだの云って」
扉を開けたまま、男は煙草に火をつけた。部屋のなかに溢れだしている冷たい光のなかに、白い煙がちらちらと揺蕩った。
「……水、好きなんですけど。夏場、水だけ飲んでると、なんだか、まずい気がして」
「葉っぱ漬けたところで大して変わりゃしねえよ」
話しながら、不意に男は、赤黒い液体に満たされた華奢な瓶を掴みとると、ラベルを見て肩を竦めた。
「………ラズベリージュースか」
酒でもあればマシだったのに、と、男は灰皿代わりのアルミホイルに灰を落とす。その灰が落ちるのと同時に、ベッドの上から、声がぽつりと床を這ってきた。
「僕の血です、よぅ」
ベッドの上の男は、白い爪でガーゼを外し、それをほとりと床に落とした。赤黒い染みがついている。
冷蔵庫の前の男は、黙ってそれを見つめていたが、やがて視線を戻した。
男が覗き込む白い箱のなかは、瓶でいっぱいだった。やみくもに作られたたくさんのフレーバーウォーター。色褪せた内臓をさらす人体標本のように、縦にスライスされたキュウリの断面の周りを、ちぎれたミントがふわふわと漂っている。レモンとオレンジの果肉はだらしなくほぐれて、種は底に沈んでいる。
そのなかに、無造作に置かれたラズベリージュースの瓶は、確かに赤黒く、薄く光を通して血の色に見えた。男は笑って、「お前の血なら、不味いだろうな」と舌を出した。
水のなかに沈んだ、たくさんの死んだ果物とは別に、色のついた瓶もそこかしこに隠れている。面白半分に手を突っ込み、男はもうひとつ、異質な瓶をさぐりあてた。
ラベルのない、四角い底の瓶だった。中身は黒黒と、夜闇のようにつめたい。
「こっちはなんだよ」
「黒い紅茶です」
「……あー、……」
立ち上がると、男は瓶を手に持ったまま、ベッドの脇まで歩いてきた。
「恩田陸か」
正解です、と笑った脇腹に軽く蹴りを入れ、咳き込む姿を見下ろしながら淡々と「お前好きだよなァ、あの小説」と、煙草を唇から離した。
「なんだっけか、あれ。コーヒー、じゃなかったよな」
「依存性がある薬物、とかだった気が。フィクションですから、実際にそんなものがあるのかは知りませんけど……」
蹴られた男は、肋骨の浮き出た半身をやっと起こして肘をついたが、その肩胛骨のはざまに灰を落とされて小さく声をあげた。しなる背に、掌を置いて押し潰すように体重をかけながら、裸の男は唇を歪める。
「力抜け」
云われたとおり、息ができなくなることを予感しながら力を抜いた男のうなじを掴み、勢いをつけて真横に引き倒した。そのままベッドから転がり落ちた体の、骨盤のあたりに足をかける。
「本当にお前は厭な奴だよ。訳のわからねえもの作って、飲んで、ひとりで壊れてりゃ世話ねえな」
「……っ、た、痛……」
「で、なんだよあれ。ブラックコーヒーか? それとも中国茶か何かか?」
器の形をした骨盤を踏まれ、床に倒れたまま男を見上げる眼は、眩しい光を追うように震えている。この部屋は青く、暗いというのに。裸の男は黒い髪をかきあげ、死体のように力を抜いた奴隷の腹にさらに体重をかける。
「ラズベリージュースなんて飲む気にもなれねえ。お前の血の味くらい、俺ぁもう飽きるほど知ってんだよ」
「……嘘、は、ひとつだけですってば……」
絞り出すように答えると、じわり、と、手の甲から血がにじみ、ぽた、と床に落ちた。
「…へえ」男の脚が、腹から離れる。歯を食い縛って体の痛みをこらえ、それから、顎をあげて、震える声で囁いた。
「賭けましょうよ。どっちが嘘か」
床に横たわる肉体を跨いで、残酷な男は嗤っている。足元には、ふたつの瓶が転がっている。
「僕の血か、黒い紅茶か」
床が、昏い海のようにうねる感触がする。広げた指の先に力を込め、ぞわぞわと、這いまわる黒い欲望を、一滴たりとも逃さないように、自分も嗤う。
「いっしょに、幻をみましょうよ……」
真っ赤な瓶のラベルが、月光の反射に紛れて、"Drink me"と舌を出した。
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