Invisible line -1995.12.24 I've got a Crush on you
「Please mind the gap」
耳元で聞こえた、聞き慣れない言葉のチョイスに、首を捻るより先に、まったく同じ言葉が
「
ああ、とフレッドは俯いたまま声をあげて、それから首を縦に振った。こうしたほうが、自分が言われたことを理解した、と晴眼の相手には伝わりやすい、と教わったからだった。
「こっちではそう言うのか?」
「まあね。アメリカじゃ聞かない表現でしょう──ほら。気をつけて」
組んだ腕を軽く引かれる。一歩動くと、すぐ傍らを子供の声が通って、コートの裾が杖に触れた。家族連れの声がする。──あの白い杖なに? ──あれは目が見えない人が持つものよ。
「……人が多い」
「クリスマス休暇なんだから。こんなものですよ」
苦笑した声が伝わってくる空気が、始終あたりのざわめきに震えている。鬱蒼とした繁みをかきわけて目当ての花の匂いをかぎとるかのように難しい。
ヨーロッパのクリスマスと来たら、それは祝祭の大波のようで、スノー・ドームのように十二月の世界を包んでしまう。その気配は、目が見えなくとも皮膚にあたる粉雪や、聴こえてくる浮かれた音の群れで伝わってくる。
「ロンドンはいかがですか」
問われたフレッドは、鼻と眉間に皺を寄せ、大きな犬に似た表情をした。
「臭い」
「ははあ。手厳しい」
傍らでのんびりと返した人物は、ぐい、とフレッドの腕を引き寄せた。オークモスの香料が近くなり、くたびれた都会の冷たい空気から、ほんのりと人肌の気配のなかへ包み込まれる。
「あと、うるさい」
「文句の多い人。でも、そうですね」
春の苔か、それともうさぎの毛のようなふわふわした襟巻き越しのすぐ近くで囁かれる。「臭いし、うるさいし、猥雑で、汚い。都会とはどこもこんなものですよ──」
列車の走行音が、湿気た地下の空気を震わせて近づいてくる。終わりのない人々のざわめきさえ飲み込む、古い時代の汽車の黒煙に似た鋭く重たい音。
「──
低く呟いた彼は、ふと隣の青年が両手で耳を塞いでいるのを見て、ふっと苦笑した。その手を取り払って耳元で言う。
「あとで──明日になるだろうけど──ホテルの庭を歩きましょう。雪がやめば、ね」
それを聞いたフレッドは顔をぱっと明るくした。雪に濡れた古い煉瓦と土の庭の匂いをありありと想像した横顔に朱が差す。
「ホテルのピアノも弾いてみたいな」
「それ、向こうがお金払わないといけなくなるので、ダメですよ。少なくともマネジャーに訊いてからにしなさい」
「ん。レストランで弾くから我慢するかな……あそこはピアノがよく鳴る。人がたくさんいるのに音が吸われない」
「オーナーは音楽好きですからね。古いピアノだけど、きっちり手入れされてますよ」
「試し弾きさせてもらったけど、音が硬くてかるくって、飴みたいだった。うん、クリスマスにぴったりの音だ──プログラムには何を弾くって刷ったっけ? 確か樅の木と月の光は入れたけど。クリスマスメドレーのなかに、なにか──即興で──新しい構成をいれたいな」
「私に言われてもね。マネジャーはどこへ行ったんですか。まったく……」
「彼女はたぶん…オーナーと話してる。色々決めてくれてるけど、俺にはわからない話だから」
「仕事より、私と会うことをとったんですか」
悪戯っぽく、呼気を含んだ声で笑うと、波打つような駅の喧騒のなかで、ほんとうに小さく──「うん」とフレッドは頷いた。
同時に、滑り込んできた列車の音が二人の間の空気を圧し流してしまった。
★★★
深い緑を主体に、金銀と赤とすこしの青をあしらったクリスマスの飾りが、魔法をかけたように一面を包んでいた。
レストランはもう人の声に満たされていて、この中心に入っていくのだと考えれば胸のなかに羽毛をつめこまれて膨らむような心地がした。
手を引かれてついていくと、靴音の反響の変化から、洗面所へ連れていかれたのがフレッドにはわかった。
動かないで、と言われて、ぱちん、と小さな蝶番の開く音。
「ファンデーション、直しますから」
ふわふわしたなにかに、とてもきめの細かいなにかの粉をつけて軽く、素早く顔を叩かれる。ここまで執拗ではないが、取材の前にもやられることなので、初めてでこそないが、フレッドはこれが苦手だった。何をしているのか、なぜしているのか、説明をされても結局フレッドには理解できないのだから。
特に鼻梁と目の下を執拗に叩かれるので、文句のひとつでも言おうと口を開いたとたん、粉が舌にはりついて咳き込む。
「ノリが悪い……ちゃんと化粧水つけてますか」
「う」
「……あれ高いんですけど」
「あう」
「…ま、君にそんなことを言っても無駄だけどね。こら、しかめっ面しない。よれる」
「おわった?」
「まだ。……君、そばかす増えた?」
なにかに集中している彼は、言葉が短く、親しげになる。フレッドはそれが好きだった。
「渡した日焼けどめは……まあ、つけてないでしょうね……ほら。おわりましたよ」
ぱちん。蓋が閉じる音がして、ひねった蛇口から滴る水の帯が陶器を叩く。
「これを顔に塗るとそんなに変わるのか?」
「こら、顔に触らない。……変わります。
私は君のそばかすが好きだけど、今の君はとても美しいよ」
「……よくわからないけど、その方がいいなら、まかせるよ。ステージがあったら呼ぶ」
「私は君専属のスタイリストか何かですか? ─まあ、真似事をしてるのは確かだけど」
話す声が近くなる。後れ毛をなでつけ、耳にかける指は少し湿り気を帯びていて、冷えていた。
手を引かれて洗面所を出ると、また微かな賑わいに取り囲まれる。その浮遊感に爪先をのせて、傍らの男に囁く。
「君は俺のピグマリオンかもしれないね」
「──それは言い過ぎでしょ」
「あるいはヒギンズ教授かな。──君がここのオーナーに話を持ちかけてくれたというのも知ってるよ。かなり自由に弾いていい、という条件で──感謝してる」
「……だってそうじゃないと、演奏の質が十全じゃなくなるからね。消費者に、自分が出せる最もよいものを提供するのが、我々のような職種の使命なのですよ」
小難しい語彙で話しつづける声が小さい気がした。触れていた体を押しつけるほどに近づくと、相手も気づいて「…ここ、文化人御用達、と噂のきちんとしたレストランですからね、ロンドンには珍しく」と、少し声を深く、大きくした。
「荷が重いなぁ。誰がいる?」
「うーん。たぶん、奥の席に舞台俳優のXXと……あ。新人作家のアトキンソンが──書評で見た写真と同じネクタイだな──彼の小説、本屋においてあったんですよね」
「作家? 気になるな。どんな話を書くんだろう」
「さあ。私は読んでないので……」
「今度俺に読んでくれ」
「嫌ですよ。あなた寝るから」
「他には、誰が?」
「私ですかね」
「………君は客か?」
「客ですよ。クリスマスに独りで夕食をとる寂しい客です」
「
光の溢れるホールを前にして、男は足を止めた。フレッドも立ち止まって、きっと相手の顔であろうところに青い瞳を向ける。
「………何、急に」
「だって、セイがさみしそうだったから」
フレッドはコートを脱いだ。俯いたままの睫毛にライトが当たって、金の粉がふりかけられたように光っている。タキシードの袖で、銀のボタンが光った。
「君の相手はいつも舞台の上にいるよ。テーブルから俺を見ていて」
ステージライトの冠を戴くストロベリー・ブロンドに、セイと呼ばれた男はまばゆそうに目を細める。それはフレッドの目には映らないけれども、セイはいつだってその眼差しをしたときにこう囁くことを知っている。──
二十世紀の終わりの、クリスマス・イヴだった。
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