悪党番

「──先生!」

 白衣の背中に呼びかける。

 これはいつの記憶だろうか。病院の廊下には、スカイブルーの象とレモンイエローのキリンの絵が描かれている。繁るりんごの木の緑と赤、これは五年前に塗り替えられてしまった以前の小児科病棟だ。

 ベイビーピンクの床を小走りに、目の前の背に追いつこうとする自分の靴が目にはいる。真新しいスニーカー、ああ、もう買い換え時だと今朝思ったものだ、とぼんやり考える──



「すべての仕事は売春である」──ジャン・リュック=ゴダール



「医者がスプリット・タンっつーのは、どうなんだよ?」

 洗浄液を満たしたポリバケツに、釘バットを突っ込んでじゃぶじゃぶと洗いながら、女が言った。

「え? 別に……特になにか言われたことはないけど。泣かれたことはあるかな。子どもに」

「だめじゃねーかそれ」

 バケツの縁に足をかけ、蹴倒しながら釘バットを引き抜く。ばしゃあ、と大きな波の音がして、泡立った薄赤い液体が、タイルの床に広がった。

 人の血を吸って黒々した釘バットを、それでも毎回─彼女にしては─丁寧に洗うのを習慣にしている女、すなわちバイコーンは、洗浄室の扉を足で蹴って開ける。事務所に備え付けられた、医務室の傍らの一室は、どれだけ皓々と灯りをつけても、モノクロームのフィルムで見るガス室のような翳りがとれない。

 洗浄室で、バイコーンと同じようにナイフを洗っていた男は、彼女の背中をちらっと見て「床が濡れちゃうから、ちゃんと拭いてね」と声をかけた。

「わかってるわボケ。てか、テメェも人並みにそんな得物使うことあるんだな」

「え? ……ああ、これ?」

 丁寧に、返しのついた部分をスポンジで洗っていた無骨なナイフを、男、すなわちザメーニスは軽く振る。

「これは99に担ぎ込まれてきた子の私物。本人はまだ寝てるんだけど、血とか脂まみれのままほっとくと、錆びちゃうから」

「で、テメェが洗ってやってんのか? おいおいマジかよ。テメェはそいつのママか?」

「俺はしたいからしてるの。相手が嫌だったとしてもしちゃうから、これは俺のわがままだよね」

「知るかよ、ヘビ医者」

「それ、ヤブ医者と語呂が似てて嫌だなぁ……」

 くすんだピンク色をしたタイルに視線を落としながら、ザメーニスは呟く。

娑婆シャバいぜ。誰かのために何かしたいなんて、悪党に向いてねえよ、そんな悪魔みたいなベロしてさ」

「俺のこの舌も、この役目も、そうしてほしい人がいたからしてるけど、それは俺がその人のおねがいをききたかったから。俺のためだよ」

「偽悪者理論だな。やめとけ、考えすぎて脳が腐るぜ」

 釘バットを大きく振り、消えない錆の臭いを撒き散らしながら、バイコーンは獣の角じみたツインテールを揺らした。

「アタシたちのこれは生き方。そうじゃなきゃ、単なる仕事だ」





「──鵺薪ヌエマキ先生、鵺薪先生ってば」

「ん? ああ、悪い。ちょっと電話してた」

 院内PHSを片手に、振り返った旧い友人は軽く首をすくめた。

「なんだか、あなたに先生っていうのはいつまでたっても慣れないね」

「おいおい、君も今は立派な先生だろ、薬師丸ヤクシマル先生?」

 彼の少し笑った目元につられて、薬師丸も破顔した。「照れちゃうよ。同級生だったんだもの」

「後期研修先まで一緒とは驚いたがな。君は地元に戻ると思ってたから」

「うーん、まあ、考えてはいたけど。あ、そうそう。鵺薪先生、十二月の二十六日なんだけど──ちょっと十四時くらいから二時間、あけられない?」

「そこらへんは休みだから、行けるよ」

「ほんとにごめん。イブとクリスマス当日は呼ばないから」

「はは、そこ二日も残念ながら仕事だよ。君こそ休まないのか?」

「俺、夏に育休取っちゃったからしばらくは休めないかなぁ」

 苦笑と似た形に眉を下げる薬師丸に、鵺薪はまばたきを繰り返した。「そうか、そういえば」

「うん。──あ、これ。去年のクリスマス会の写真なんだけど」

 薬師丸が差し出したスマホの画面には、Facebookに投稿された写真が光っている。円形に並べた椅子─ときどき、車椅子─に座った子どもたちが、種々の華やかなプレゼントボックスを抱えて笑っている。その背後には、大人の身長より少し低い、プラスチックのクリスマスツリー。……と、白と赤の、誰にとってもおなじみの衣装を来た人間の姿。

「小児科Facebookやってるのか。……このサンタ、君か?」

「うん」

「すごく目が死んでるな。というかつけ髭が、これ、綿か? 塊の」

「目は写りの問題。楽しかったよ。髭に関してはなにも触れないで。……で、相談したいことっていうのは、つまりそれ」

 鵺薪は、片方の眉をひょいとあげる。察しはつくが、黙って聞いてやろうじゃないか、の合図だ。薬師丸は小さく肩を竦めた。

「平たく言うと、長期入院の子たちの間で、サンタクロースは薬師丸先生か議論が勃発」

「……あー、なるほど」

 思わず、といった感じで苦笑を漏らした鵺薪に、薬師丸の穏和そうな形の眉がさらに下がる。

「困ってるんだよぉ。先生、二十六日の予定はぁ? っていっちょまえにカマかけてくるし。好きでやってるからいいんだけど」

「でも別に中身が変わるだけじゃ、サンタは実在しないのではないか、という議論の本質は変わらなくないか?」

「いやでも俺、これ以上サンタのフリする度胸はないよぉ。訊かれたらほんとのこと言っちゃいそう」

 泣きつく真似をした薬師丸の芝居っ気に苦笑しながら、言外まで察した鵺薪は腕を組む。

「やってもいいけど、ミナちゃんやショウ君はすぐに俺だって気づくだろうなあ」

「中高生組はね。小学生組も手強いよ。あとで死ぬほどイジられるだろうから覚悟して」

「はは。元気なのはいいことだけどな」

「あとでまた詳しい内容はメールするね。そういえば18A病棟のウヅキくん、また幻聴出てきちゃったからもう少し来る頻度増やしてほしいってナガエ先生が。できる?」

「ああ、角部屋の。わかったよ、明日あたり顔を出す、──」

 いくつか業務的な会話を交わしたあと、じゃあ、と片手をあげた薬師丸に、背後から不意に「──そういえば、」と声をかけられた。振り返ると、りんごの絵の下で、鵺薪が─少し注意深い口ぶりで言いながら─自分の口許を指さしたあとに薬師丸のほうを指した。

「……君、いつからその舌なんだ?」

「ああ、これ?」

 にっこりと笑った薬師丸は、その唇の隙間からピンクの肉を覗かせる。微笑の上で、二股に別れた舌が、ぬるりと離れて蠢いた。

「──ずっと前からだよ」

「……すごいな。なんというか」

 指で舌をなぞる真似事をして、鵺薪は眼を細める。短く切られた爪で舌の真ん中をつぷ、と押して、無意識にか眉間に皺を寄せる。「スプリット・タンだったか」

「そう。昔、って言われたの。─むかぁし、ね」

 鵺薪はなにも言わなかったが、クリスマス会の写真を見せられたときとは少し違う雰囲気で、片方の眉だけをあげた。

「──じゃあ、また。体に気を付けて」

 それだけ言うと、鵺薪は──人間の舌と似たピンクの廊下を歩いていった。




「すべての仕事は売春であり、愛である」──『pink』岡崎京子

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