Exorcism ─Angelus ex machina 2

「お前はいつも微笑んでいるな」

 天使は機械だとおもうか、と訊ねて、先に返されたのがその言葉だったので、彼は首をかしげた。しかしすぐに続けて、その赤毛の天使は「俺が機械に見えるのかい?」と言った。人間(すなわち、天使)と同じ形をした機械を見たことがないので、彼は首を横に振った。

「もしそうだとして、何か変わるのか?」

 そうも問われ、またかぶりを振った。赤毛の天使は、新緑の瞳でじっとその顔を見つめていた。彼は先ほどの言葉を思い出して、自分の頬に指を当てた。いつもこの場所にある口角のくぼみに人差し指を差し入れ、相手の瞳より幾分つめたく翠に輝く唇をなぞってみた。

「俺はそんなに微笑っている?」

「ああ」

「どうしてみんなそのことを言うのかな。カミエルはいつも烈火のごとく怒ってて、アリアスさまはいつも麗しき仏頂面、カイヤエルさまは大理石の真顔、朝食さまも、いつもふわふわ笑ってる。いつも微笑っているからといって、彼らと俺のいったい何がちがうのさ、ザジ」

「お前のそれは、感情こそ伴っているが、その裏がないからだよ。裏打ちする自我が稀薄だ。空に仮面がかぶせられているようだ」

「感情があるのに? うん、そうだ、さっきの質問はね、そういうことなんだよ。その昔だれかと話したんだ、天使は機械だって。俺がいつも微笑っていることが機械のようだって。いろいろな天使や、堕ちた天使がいるけれど、それは感情のせいなんだって。それって、天使に感情は要らないということ?」

「お前はたぶん、わかっていないんだな。その議論の主旨は、主は俺たちをお作りになるとき、実験しているということだ。天使という機械に、感情はどのくらい必要か。感情が人を堕落させるが、天使もまた感情がなければ存在することができない。感情のない天使がいないことがその証明だ」

「主は実験をしているって? なぜ? 主は失敗をしないのに」

「あらかじめ失敗だとわかることをなさらないだけだ。主はお試しになる。人間も、天使も」

 話を終えた赤毛の天使がなだらかな肩の曲線をあらわにすると、大きな翼が重なりあってあらわれた。重奏や薔薇はみんな天使の翼に似ているな、と彼は思う。だが、どうしてかはわからない。天使を見たことがある人は少ないはずなのに、どうして彼らは天使の翼と似たものを愛して、そしておかしくなるのだろう。



 異国情緒のあだ花を咲かせていた売春宮殿は、人間たちの慈悲なき聖戦によってうち壊され、気づけば薔薇窓の美しい教会に変わっていた。

 オリーブの葉に投げかけられるプリズムの光はあい変わらず蜜や波の色をしていて、人間が神に捧げるものを美しく飾る理由を考えた。その昔、半陰陽の女王が腰かけていた玉座のあったところには、巨大な十字架が掛かっていた。

 つよい地中海の陽射しのなか、泳ぐように金の熱のなかを歩く人々に混じって礼拝を見るのは、"仕事"終わりの習慣になりつつあった。

 彼は人間の姿でいる方が楽だった。翼の焼ける痛みや手足に糸が繋がれているような感覚が薄れて、自由な気がするから。果物売りや魚売りや花売りと一緒に、辻音楽師の歌を菩提樹の影で聞くのが好きだった。週に三度も聴罪神父のもとへやってくる敬虔な女中と、ときどき手をとって踊ったりした。それはその昔、天使の足にくちづけた男がつくった曲の名残であった。かつて黒い火で編まれた聖なる歌は雨のように街に降り注ぎ、長い時を経て土となり、いちめんに花を敷く。その花をみて、信仰ぶかい人びとは神に、ありがとうと歌うのだ。

 その聴罪神父は、孤児を世話していた。その孤児はやがて少年になり、青年になった。瞬きする間に成長し、老いる人間同士の関係性を近くで見つめたことはあまりなくて、彼は興味深くそれを見守っていた。オリーブが実り、シトロンが熟れ、菩提樹が咲いた。時は過ぎ、神父は世を去り、青年は神に仕えるようになった。そして……。

 ある朝、天使が青年を迎えにやってきた。青年は跪き、かつて聖なる歌を紡いだ男のように、涙を流した。しかしその唇は清廉に土に触れた。それを、十字架の下で、彼は見ていた。

 天使は、翼を隠した彼の姿を見て微笑んだ。その絶対的な眼差しに、彼の脊椎が燃え立った。燃え尽きぬ柴、神の声を伝えた燃える柴から、かりそめの身のうちが焼き焦がされるような黄金の火の粉が飛んだ!

 ──あれこそ、支配する者!

 突然に、彼は自分自身のうちに、神からの声も、人間からの懇願もなしに生まれ出でるものを感じた。それは火であり、血であり、音楽であった。それは声高に叫ぶ、この肉体を支配するのは、この魂だと、この溢れくる渇望、その名は───



 音楽を愛しておかしくなった人間を、たびたび見てきた。人間を愛しておかしくなった人間も。人間には二種類がいて、魂がもうひとつの片割れを探してさまようから、おかしくなるのだと教わった。

 そしてそれは、天使も同じなのだと。

 彼は跪くほうであった。天使は、尽くし、かしずき、跪く存在が多かったが、跪かせる天使も数多くいた。そういう相手を見ると、なんだか本能的に異質な存在を見るようで畏ろしくも感じたし、肉体の胸のまんなかにかきむしりたいような火が生まれて、どうして肉に指を沈めることができないのか煩悶することもあった。神の声は、天使の肉体についてなにも教えてはくれない。

「俺、人間になにか頼まれると、そうしてあげたくて仕方ないんだ。神さまもだめって言わないし」

「それはきっと性質がなせるものだね。あまりに度を超さなければ、主も止めはしないだろう」

 黒髪の天使の淡い色の瞳が、月のように輝いていた。その金属プラチナ的な光沢をつぶさに観察しながら、こんなに美しくても、天使を模す人間の肉体は機械ではないのだ、と不思議に思った。それなら、魂は?

「ねえ、アシュリー。天使って、機械だと思う?」

「その考え方は少し寂しいな」

 そう言った優しい天使が、後に嫉妬の炎に翼を焼かれて堕ちたと知ったのは、彼自らも堕天してのちのことである。かつて、天使に跪く人間を見た。選ばれた青年、嫉妬に堕ちた天使。きらめく欲望、不毛の月面。かつて口づけられた足の甲のみえない傷、恋の火の粉から浸潤する透明な毒。翼は灰色に染まって、抜け落ちていくばかりだ。

 欲望は罪悪というのなら、どうして神は我らの魂を半身にしたもうたのか?



「あんた、聖歌しか知らないのかい」

 柘榴の花の下で不意にたずねられて、顔をあげると、まだらな木洩れ日のなかに女の顔があった。鞣し革のような褐色の肌に、黒い目が印象強かった。

「さっきから全然踊らないじゃないか」

 夢から醒めたように周りを見渡すと、楽器の音が絶えず水のように流れ、あちこちで人が踊っていた。母衣ほろのついた馬車が木陰に止まっていて、もうすぐ暮れる空から降り注ぐ赤いしずくをいっぱいその母衣に染み込ませていた。

「帰れない」

「どうしたって?」

「俺、帰るつもりだったのに」

「なんだ、家出かい、兄ちゃん」女は彼の肩を叩いて、節のついた口笛を吹いた。「そんなら踊っていきなよ」彼の腕をとり、愛と恋の歌の輪のなかに誘う。

 彼は膝を抱えて硬直していた。歌と踊りを知らないわけではない、彼は音楽の天使である。そう、天使であるのに、どうして今こうして柘榴の花の下に踞っているのか。石畳の上には朱色の星が、石ころのように散らばっていた。背中は軽く、心もとない。

 "仕事"は終えたはずだった。人生を教会音楽に捧げた老音楽家に、芸術を解さぬ者への慈悲の心があるかどうかを試したのだった。その帰り際、裸足が棘だらけの草地で痛くなって、木を探して座り込んだ。はやく呼び戻してくれないだろうか、と、真昼の青い天に向かって思った。

 神の声が聴こえない。

 今までは、戻ろう、と思えば瞬く間に戻れたものだった。天使とは下界に"遣わされる"ものであり、その本質は天界のものだった。箱のなかの人形のように、操り糸をひっぱられて持ち主の手のなかに戻る。そして次の役割を待つ。

 灯の消えた舞台の上に取り残されたように、彼は突然に不安になった。神よ、神よ、この手足に枷をもどして。今すぐに、折り畳んで、箱に戻して。自由は恐ろしい。

 ──星の環が光った。

 ぱっと暗い空を見上げると、今やすべてを夜に塗りかえられる寸前の、天蓋の遠い涯てに、星があった。その明滅は神の声だった。

 消えようとする夕暮れの光の最後の一筋が道を指し示した途端、女を振りきって彼は駆け出した。石畳には血の足跡がついた。

 塞がりかけた傷を引き裂くような痛みのなか、よろめきながら、ずるりと引きずり出した翼を広げると、みぞれ混じりの吹雪のように無数の灰色の羽が飛び散った。



 夢のように混ざりあう、菫色の夕暮れ、黄金の夜明けのなかを進む。水面の上を歩いているようだけれど、濡れない。ひりつくあしうらをしっとりと冷やす。

「朝食さま、フリユエルさま、──」

 呼びかけに応えて闇が動いた。暗幕を切り開くように、するりと部屋のぬしが姿をあらわす。この空間における光源のようにも思えるが目を射るほどにまばゆくない、不思議な光の巨人であった。人間界で、いつもばらばらになって浮遊している薔薇窓の輝きは、あるいは神の光をうけるこの天使の姿を再構成したかったのかもしれない、と彼はぼんやりと思う。

「天使って、機械ですか?」

 蜜を垂らしたような黄昏のヴェールを帯びた、真っ白に輝く、巨大な天使のもとで、せいいっぱい背伸びをして訊ねた──近頃、羽が抜け続ける翼の付け根がひどく痛むものだから。

「そうでしょうねえ」

 ヴェールの奥から、おだやかな声がぼんやりと空間に反響した。しっとり甘い、パンのようにやわらかい、心の読めない声だった。

「お仕事はちゃんとしないといけませんからね」

 やはりそうなのか、と彼は混乱した。やはり天使は機械なのか。朝食さまがそういうのなら。あの肉体のなかに生まれ出でる感覚は、それでは、"壊れかけている"という証なのか?

 巨大な天使はわずかに背を丸め、おやおやどうしました、と彼のローブの裾をつまんだ。逆さ吊りになった彼の目の前を、ローブの襞にたまっていた抜けた羽が舞い落ちていき、思わず息を飲む。まるで降りやまぬ雪のように大量なそれが、水面に吸い込まれていった。

「こんなになって、重たいでしょう」

 ヴェールの向こうからかけられた声に、ふと、瞼の裏が火を食べたように熱くなった。

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