Exorcism ─Angelus ex machina 1

 天使って機械だよな、と誰かがいった。それははるか昔の天界でのことで、当時はサタナエルと名のっていたような気がする彼は、そうかもね、と微笑んだまま頷いた。顔を覚えていない相手の天使は、白い翼の先で彼を指して「それだよ」と言った。どれ? と微笑んだまま彼は言った。

「俺たちは天使だもの。よけいな機能は要らないから、お前は微笑んでばかりなんだ」

「そうなのかな」

「俺は疑問を持ってばかりだ」相手は翼のなかに顔を埋めた。「不良品だ。そのうち堕天するだろう」

 そうだね、とサタナエルは音のない微笑だけで示した。天使の囁きがない天国は、聖なる音楽もなく、無音だ。今の地上では薔薇のようと例えられるかもしれない、あまったるい靄のなかで、からっぽの微笑が、やっぱりあまったるく漂っている。



「えっとぉ、あなたは、己をよく律し、利益にも執着せず、姦婬にも耽らず、えっと…二十年間まじめに教会に仕えてぇ……」

 適当に「人間がありがたがる天からの言葉集」のなかから選った単語を並べていくと、目の前の、ぼろ布をまとった男は泣きながら楽器の前に膝をつく。神を讃える音楽を作り続けた男は、星の環を戴いた黒髪の天使の姿に白くなるほど指を組み、祈りの言葉を唱えている。

 天使は、神から、ときどき人を誉めてやりなさい、と命令される。その指示の、人間的な言葉への変換の仕方は様々だけれど、彼にとってはこうなる。この人を誉めてやりなさい、と命じられたので、はあい、と降りてくる。神が息を吹き込むので、天使は楽器となって福音を鳴らすのだ。この手に持っている角笛のように。

 神が、この人間をなんで誉めようと思ったのかはわからない。それは彼にとって想像可能な疑問ではない。

「……天使さま!」

 男は咽びながら彼の足元に体を投げ出す。バスク地方の黒髪、浅黒い指先の爪が土地を掻く。光や翼とおなじ色のままにしておいた肌に、男の影が落ちる。陽光のもとで鍵盤を叩き続けた指先は蛙のように平たくなっている。

「私は、私は……決して罪を犯さなかったわけではないのでございます…! ああ、天使さま……!」

 耐えがたい責め苦を受けているように額を土に擦りつけ、涙を注ぐ男に、彼は「随分と自罰的な考え方をする人もいるもんだなぁ、神さまが誉めてくれるって言ってるんだからそれはもうそちらの意識なんて関係のないことなのに、」と薄ぼんやりと思っていた。

「私は…麗しい天使さま…私はのことを想っていたのです……罪深いこと!」

 いったい、「想っていた」ことの何が罪深いのか、彼にはわからないので、微笑んだままでいた。神でなく天使を想っていたから? おなじ人の形をして現れるものだから、人間は天使を神とは異なる個として勘違いしやすい。礼拝堂の壁に描かれた天使たちが絵具の瞳で見下ろす男は、這いつくばって、慈悲を乞う癩病患者のように、触れられない靄でできた天使の裳裾にとりすがった。

「お許しを……あるいは罰を! いいえ、いいえ、いっそ許してくださらなくていいから……私が罰を受けるべき理由を今からお示しいたします……」

 幼い頃から神童と謳われ、ずっと神のもとで音楽を奏で続けていたという男は、その瞬間初めておもてをあげた。その瞳、黒い瞳の奥には煮えたぎる欲望、抱くものをすべて灰にする恋の黒い火。その溢れる感情が天使の白い衣に乱反射して火の粉になって、男の震える唇に、目に、腕に、腰に凝る。「あなたに触れたい」

 彼はやはり微笑している。天使に触れたいことは罪だろうか。彼には判断するすべはない。神が言うことがすべてだ。今、声は聞こえない。だから微笑だけを返してやる。

 地を這う男は、黒い火の唇で、彼の足の甲に口づけた。



「傷がついている」

 天界の水が滴る景色のなか、すれ違った黒い天使がそう言って、彼の眦を擦った。金の光、銀の頬、黒い睫毛。右の眼の切れ目──瞼を閉じると景色の代わりに真っ白な空虚が眼前を満たした。天使の夢は白い。

「傷?」

「そうだ。……取れないな」

 艶やかな真っ黒な肌をした天使は、その月色に輝く爪の先で器用に彼の頬を擦ったが、その尖端から飛ぶ火の粉が気になって、彼は身をよじった。「くすぐったいよ」

「傷だ。お前はなにをした?」

「なにも」

「ふうむ。では、神の雫だ」

 黒く輝くかんばせに、炎の形をした白い髪を立ち上がらせた天使は、その果実っぽい丸みを帯びた唇の端から火の切れ端をひらひらと散らしていた。

「そういうもの? 俺は肉体を得て間もないのだけど」

「神は誤らぬ。お前の頬にはその模様が要るんだろう」

 言葉とは裏腹に眉間に皺を寄せたまま、黒い天使はきびすを返した。あまったるい靄を踏みしめる黒い裸足の裏は銀に輝き、あたりを層構造になって流れ落ちる多段滝カスケードによってつくられた幾つもの幕の向こうへ、黒い天使は飛び立った。八枚の羽が広がり、中央で薔薇窓のように輝く薄紅が燃える。銀に透ける黒い火が吹き上げる風に、熱いな、と思った。



「あなたがたは病に冒され、えっと…慈悲を必要としている……その憐れな姿に、人々は祈り…特にあそこのナントカ修道院が…そう、それで、それを聞き入れて、神は奇蹟をぉ……」

 いつまで経っても覚えられない、人間が喜ぶ言葉を。梅毒に冒され、道に棄てられた娼婦たちの前で歌うように呟いてみても、彼女たちはぼうっと彼を見上げるばかりだ。なんでここに来たのだっけ。そういえば。聖歌を目印にやってきた。それだけは覚えている。

「天使さま、なんでまた、こんなところに?」

「え、それは俺もわからない。主のお考えになることだから」

 遠くの教会のてっぺん、魔法のような薔薇窓に反射した光が、この病人と死人がひしめく奇蹟小路クール・ド・ミラクルにたったひとすじ注ぎ込んでいる。肺病で夕べ死んだ小娘が放り出された石畳の上に、金色の薔薇の花びらが蜜を垂らしている。

「天使さま。おれはずっと歌ってたんだよ。あんたの歌をさ」

 しわがれた男の声に、おやと振り返ると、歯が抜けた皮膚結核の男が女物のドレスを着て打ち捨てられていた。腕も足も投げ出されていたが、青っぽい波間のきらめきのような光が、男の上にも花びらを散らしていた。

「あんた、きれいな顔してるね。おれの昔の情夫イロに似てるよ。おれの歌を誉めてくれたのさ」

「あたしの恋人にだって似てるわ。あんなに美しかなかったけど、いつも優しそうに笑ってた」

「なあ、天使さま。くちづけてくれないか。慈悲ったってもう遅いさ。治ってもいくところなんてない」

「そうよ。あなたの微笑みひとつもって地獄へいった方がいいわ」

 女や、男や、よくわからない腕があちこちの暗がりと光の破片が折り重なった地面から伸びてきて、彼の衣をつかもうと蠢いた。尖って割れた爪の先が、彼の裳裾に引っかかった。薔薇窓の鮮やかな光に耐えきれないようにその下で身を横たえながら、病んだ人々は天使を求めた。彼はこれは命令に含まれるのだろうかと迷ったが、神の声が聴こえぬので、その光の切れ端のひとつに膝をついた。

 その瞬間、皮膚結核の男の枯れ枝の腕がばさりと鴉の羽のように跳ね、彼の頭を抱え込んだ。人間の姿をしている彼は倒れ込み、翼の分しか重みのない白い肉体が、乱反射する薔薇の影のなかに浸された。彼の豊かな髪に指をねじり絡め、そのかんばせを舐めるように見て、そして実際に溶け落ちかけた舌でその唇に触れて、わずかに開いたそのつめたい隙間を汚した。彼の瞳には、大写しの骸の眼窩が、欲に満ち満ちて映り込んでいた。

「ああ──うつくしいねえ──天使さま」

 男は、歯の揃わない醜い口で、にたりと笑った。



「羽が抜けたぜ」

 声をかけられ、立ち止まると、踵に羽が触れた。付け根から抜けたふわふわした綿のような羽が、雲路の上に落ちていた。

「羽って抜けるものなんだ」

「ああ、冬にはね。しかし天使の翼は実体かせを伴わないから、抜けたとてこうして残ることはないのに」

 彼に声をかけた小柄な天使は、点々と落ちた羽をじっと見つめていたが、不意に顔をあげた。

先刻さっき議論していたんだ、主はなぜ我々に人間の肉体をお与えになるのかについて」

「そんなことを話すの」

「ああ。人は愚かだから、己と似た姿の者しか受け入れない」

 彼は眼前の天使の、朝焼けの髪と、薔薇色の頬と甘い紫の瞳を見つめた。彼は黒く波打つ髪と、真白い頬と緑の瞳を持っていた。そういえば、人々が描く天使はみんな金の髪に青い瞳をもっているな、とぼんやり彼は思った。高位の天使にそんな見かけの者がいた。人々はみな、彼を見たのだろうか。黒い天使や、銀の天使を思いながら、薄紫の天使の、子どものような小さいかんばせを見おろした。薄紫の天使は、割れた宝石の溝にひそむ深淵のような瞳で、じっと彼を見つめ返して言った。

「お前はいつも笑っているな、サタナエル」



「世界のみんなが不幸になればいいのに」

 売春窟の奥で、豚の脂で寝台を磨きながら、小娘が呟いた。小娘の体は痣だらけで、黄色っぽい栄養失調の肌色と、赤や紫や青や緑のまだらが半々の皮膚をしていた。

 あたりを這う女の朱儒に、まとわりつかれて彼は所在なさげに立っている。天使は足を地面につけることに慣れていないから、べったりとつけてしまうと今度は離し方が難しい。小娘が朱儒を罵倒すると、女は引き下がった。しかし、すぐに男娼がその裾を引いた。彼が視線を向けてやると、薔薇でも投げて寄越されたかのように、男の瘤のある顔面がくしゃりと歪んで喜悦した。割れた宝石の模造品が男の粗末な服を飾って、それは火の粉のように暗闇で、刃のように輝いて見えた。小娘が怒鳴った。

「爺、いい加減にしなよ。大体、その男は天使だけど、なりは乞食じゃないか。光と音楽以外にくれられるものなんてありゃしないよ」

「客のとれないガキは黙ってな。なにが天使だ──ねえ、旦那、アタシを買わないかい。あんた金持ちの坊っちゃんだろ、そんな足をしてるよ。爪が真珠みたいに揃ってる」

 彼の白い足に吸いつく蛭のような男娼に、小娘は豚の脂を投げつけた。彼があわれに思って、自分の首に腕を回そうとする男の裾に引っ付いたその脂を除けてやると、小娘は吐き捨てるように呟いた。 

「あんた、やっぱり変だよ。畸形にさわられても平気な顔をしてるんだもの」



 同胞が堕天したと嘆くものがあり、天界は騒然としている。それでもなお人間の世界からしたら耳を澄ましても気づかぬほどに静かだ──真実の天使の動乱はこんなものではない。三人の兄と呼ばれる天使あり、その末に続く天使が堕天したというのは黒い天使の怒りの声によって知った。

 鳥が騒ぐようにあたりを漂う翼のひとつをつまんで、ちょいと引くと、あまり見たことのない天使が振り返って、きょとんとした顔を見せた。「誰か堕天したんだってな。俺は造られたばかりだから、これが初めてだ」

「俺もあんまり見たことはないよ。天は広いからね。どうして堕ちたんだろう──」

「さあ。人間みたいに感じて、考えすぎたからって、あそこの年嵩の天使たちは言ってたぜ。確かに、感情ってのは厄介だからな」

「なるほどね。感情、感情──感情かあ──」

「そうさ。になりきれなかったと──」若い天使は肩をすくめ、目をぐるりと回した。まだ一度も地上を見たことがないその色を、彼は興味深く眺めた。彼は天使しか見たことがない。

「ねえ、天使というのは、機械だと思う?」

 若い天使は振り返って、目と口を大きく開いた。

「ええ、お前、自分の感情を忘れちまったのか?」



 売春宮殿の女王は言った。「世界のみんなが不幸になればいいのに」

 イスラーム風の塔の上、女王は畸形にかしずかれながら黒い蘭のような化粧をした唇を歪めた。「なあ、そうはならないのかい。天使さま」

 彼は当世風の質素な格好をしたまま、曖昧に首をかしげた。目の前の麝香と白粉の塊じみた肉体が、かつてみた人間なのか判断がつかなかったからだ。

「あんたは天使さまだろ。母から聞いたよ、天使っていうのは貧乏人の格好をして、いつの間にか戸口に立っているんだって。それで人の心ってもんをはかるんだ。祖母から聞いた話だって。おあいにく様。ここに人なんていないよ」

 そうか、あの小娘はこの女の祖母か、と彼は思った。

「天使さまを初めてみた女王の祖母は、二十歳でチフスにかかって死んだよ。そんなもんだね、神さまなんて」

 女王は黒孔雀の扇を揺らして、ふうっと瞼に撒いた紫の鱗粉を飛ばした。天井から吊り下げられた角燈がゆれて、その表面を汚し、その妖しい光をよけいに淡くした。

 売春宮殿では、いつも異国の音楽が鳴っている。異教の民が歌う声に、人間の腕が旋律のようにゆらめき、香油のなかで溺れるように肉体が絡みあう。それは透明でなまぐさい粘液の波のようにあたりを飲み込み、人間の肉体を模す彼には、その波が抗いがたいもののように感じられる。

 孔雀の格好をした半陰陽の女王は、彼の腕を引いた。溶け崩れた砂糖菓子のような泥の寝台に天使の腕を縫いつけて、その眦に指をあてて囁く。

「天使さまは、あたしたちがすることを知らないんだってね。ねえ、あんたは何を知ってるんだい。教えてやろうか。神さまのことなんて知らないが、少なくとも、あたしらに肉体を与えたことは揺るぎなく、たしかな過ちなんだよ」



「おまえのそれはー、きずだったのだね」

 抜けた羽が敷きつめられた絨毯の上で、彼は仰向けに寝ていた。腹の上で指を組み、声をかけてきた、葡萄色の天使に目を向ける。「疵?」

「そのめもと、」懲罰を司る天使は、その左眼を細めて言った。きづくのがおそかった。

 彼はよくわからないので、天に向かって手を翳し、彼を見つめる天使の、空の割れ目のごとき眼だけを切り取った。そういえば、この天使もとてもな性質を持っていた気がする。暗くて鮮やかな彼の髪は、曙光の刃が切り裂く明けかけた夜を背負っているようだ。

「ねえ、ペナさま。天使って機械っていうのはほんとう?」

「わたしは刃だよ」

 割れ目の向こうの孔は微動だにせず、彼を見つめつづけていた。刃とは機械と違うのだろうか。天使とはいったい、どれだけの種類があるのだろう。神の楽園の植物たちのように。そしてそのなかで、俺は、機械仕掛けの天使なのかもしれない。

 葡萄色の天使の髪が垂れ、黒い瞳がじとりと彼の手足を縫いつける。敷き詰められた羽は白く輝いて思考を焼く。

「それでー、おまえはまんぞく?」

 意味がわからないことばかりだ。神は彼に問いかけてきたことなどない。

「うん」

 だから頷く。拒むことなどしたことがないから。

「おっけー」

 懲罰の天使の光輪が、曙光のごとくきらめいた。



 無数の人形に囲まれている少年を見て、これは機械なのだろうかと彼は思った。地獄の植物のように痩せ衰えたこの少年は、暴風にゆがんだ柳を友とし、いつも独りでいた。

 そういえば少し前、この少年くらいの子供たちが、揃って戦いへ赴こうとした旅の列を見た気がした。聖地を目指した子供たちは賊に捕らえられ、どこか遠くへ売り飛ばされた。彼らの服に縫いつけられた十字架が切り落とされ、荒野へ捨てられるその山を見た気もするし、旅を司っていた高位の天使──人の形をとっていない、めずらしい天使──から戯れに伝え聞いたような気もする。とにかく、削げた蒼白い頬や、炎のような瞳は、その熱に浮かされたような色含めてあの子供たちと同じように見えた。

「……誰だ、お前は」

 枕元に立っている彼の膝のあたりを見つめて、藁の寝台に横たわる少年は呟いた。

「俺を救うのか、天使風情が」

「救うのは天使じゃないよ。神さまだ」

 彼がおだやかに正すと、少年はその鋭い形の目をぎょろりと動かし、射抜くように彼の顔を見上げた。

「…無理だ!」

 ぞっとするほどしわがれた声で言いきった少年は、咳き込むように喉を鳴らして笑った。

「俺は常に罪を犯し、常に罰されている」

 子供らしからぬ口調に、彼は不思議に思って身をかがめた。その緑の目の、老成した狐のような輝きを、空っぽだから奥まで見透せる彼の瞳が反射した。

「……生まれながらにして、邪悪!」

「そんな存在があるわけがないよ。主はそんなものをお造りにはならない」

「っは。天使っていうものがそんなに愚かに造られてるなら、人間が邪悪に造られているのも納得がいく話じゃないか。なあ、天使。羽が散っているぜ。人形に埃がつくだろ」

 彼が一度羽ばたかせた翼から、いっせいに舞いおちた羽を、毟る手つきで少年は払った。

「後悔させてやろうか、天使。俺はもうすぐに死んで、そしてまたお前と出逢うだろう。より堕落した、恐るべき自我として。そうして、その空っぽの、楽器のような殻を、中には何も詰まっていないおがくず人形よりもうつろな器を、叩き壊してやる」



 真っ白な球体に、気づくと、ひとすじ黒い線が入っている。その数はだんだんと殖えていって、やがて真っ黒い球体になる。宵闇の練り香水をつけて、操り人形たちがぎしぎしと幕があがるのを、球体の舞台の上で待っている。その関節につけられた糸が少しずつ切れていくのを、見ている。

 誰が切っているのだろう。鎌を持った手が、はるか遠い天から降りてきて、糸をひとつ切り、また消える。腕がずしりと重くなった気がした。

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