Blood Worker 9 ─EP3‐4
修百世方可同舟渡、修千世方能共枕眠。
だれかと同じ舟でわたるためには三百年、愛する人と枕をともにするためには三千年祈らなければならない、という中国のことわざだ。この世の縁に偶然などなく、すべてが祈りの末に結ばれている、と阿公は言った。
自分は小葵といるために、何百年祈ったのだろう。
あの子とこれから先もいたかったのなら、何千年祈ればよかったのだろう。
夫婦のふたつの寝室はコックピットのように狭くて、ハンフォンの部屋は特にものが多かったから、ベッドの上で身を丸めているとそれらの雑多な陳列物のひとつになってしまったような気がした。そうなれたらよかった。葬儀やら何やらで、もう肉体も精神も疲れきってしまっていた。
玄関の扉が開閉した音は聞こえていた。ナジェージダが酒でも買いに出たのだろうか。でも、外は雪だ。冬のヘンリーは、赤い雪と白い雪が降る。
重たい体を起こして、窓に近づいた。重たいカーテンを持ち上げると、ガラスを透かした夜の冷気が頬をなでた。
外の世界は青く、ナジェージダは、濡れて黒く輝く道路に立っていた。黒い豊かな髪は夜風になびき、光が波打った。凍った夜空に足をつけているように見えた。
雪は白く、街灯は黄色く、世界は青い。
ハンフォンは、冷たいガラスが肌と同じ温度になるほど、窓に額を押しあてていたことに気がついた。四角く切り取られたその向こう、きらきらした薄紫の靄の満ちるような眼下の景色は、現実というものは個人の悲劇などとは完全に独立し、変わらず美しくあるのだと、突きつけてきた。
ナジェージダは軽く顎をあげ、呼吸する。無音のその動作に、不意に雪の色をしたライムライトが当てられた気がした。
人間の体は
ただ一つしかない、まるで身寄りのない者のように。
魂はもう倦んでいる、
五コペイカ銅貨の大きさの
目と耳、
骨にかぶせられた
傷だらけの皮膚、
そのようなもので自分を覆い隠す殻に。
まるで、大きな箱のなかで繰り広げられている舞台を覗きみているようだった。
ナジェージダの、いつもはすがれた薄絹のように風に吹かれるとばらばらになってしまう掠れ声が、どうしてかここまで聴こえる気がした。
……
体のない魂は罪深い、
シャツを着ない体のように──
考えも、行いも、
企ても、詩もないのだから。
……
アルセーニイ・タルコフスキーの詩だ。
言葉はわからないが、響きはわかる。彼女の唇の動きを、覚えている。
時おり、ナジェージダはああして、故郷の詩を唱える。夜のなか、掠れた声で、舌を宝石にして転がすような、魔法の鏡が答える神秘の響きで。アメリカに来てから、幾つもの夜、それを見てきた。
頭のなかをいばらの繁みのように占めて、神経細胞をめちゃくちゃに千切るような散漫な苦痛と悲しみをずっともたらしていた
ナジェージダが、そのすみれ色の瞳で、天を見上げる。無音の世界で、手を広げる。
幼子よ、走れ、嘆いてはいけない
哀れなエウリュディケのことを、
そして青銅の輪を棒で転がしながら
世界を走って行け、
君が歩を進めるたび
せめてその足音の四分の一でも
楽しげに乾いた音を響かせて
大地が応じてくれるうちは。
鍵が開けられる前に、ハンフォンは内側から扉を開いた。鍵を手に持ったまま、ナジェージダはきょとんと部屋の外に立ち、「…
ハンフォンがキッチンに立とうとする肩をつかんで止め、ナジェージダはコートを脱いだ。熱くした紅茶に林檎のジャムをいれ、ハンフォンにはジャスミンティーをいれる。ハンフォンは、目の前に置かれた器からのぼる、温かい湯気のゆらぎを見つめていると、そのまま永久に時が凪いでいる気がした。
紅茶をかき混ぜるティースプーンがカップにあたるかすかな音が響くなか、穏やかに口火を切ったのは、ハンフォンのほうだった。
「魂の双子。
変な表現だと思うだろう。俺も、誰にも言ったことはない。たとえ、ずっと昔から"そう"だと確信していても」
ハンフォンが、五歳年下の彼の従弟のことを表現していた言葉に、ナジェージダはゆっくり頷いた。
「双子という年の近さでもない、とは正直思っていたよ。だが、君たちがそう思うのなら、それが正解なんだろうね」
紅茶を飲み、幾分か血色を取り戻した手で、続けて、とナジェージダは促した。ここ数日の彼が話すときのような、ずっと首を絞められ続けているような──あたたかい血がすべて涙になってしまったような──聞いているだけで、彼の心がどんな状態にあるのかわかる上擦りや嗄れは、少なくとも無かった。ハンフォンは、平時の落ち着きを取り戻したのか、感情がすりつぶされて虚無となってしまったのかわからないが、凪の状態で話しているようだった。
「人間は昔の自分と同じ存在じゃない。けれど、すべてが変わってしまうわけでもない。俺は子供の頃の俺とは別人だが、核は一緒だ。思考や、趣味や、興味は変わっていくけれど、失われない無自覚の本質をかならず心のうちにもっている。俺はそれをきっと魂と呼ぶのだとおもう。だから、どれだけ変わっても、七歳の俺は二十八歳の俺と、同じ魂をもってる。
七歳の
小葵にとって、俺は未来の自分であり、七歳の自分には納得も理解できないことを言っていても十二歳の自分はそう考えるようになるんだろう、という確信があったから、俺がいくら小葵にとって理不尽なことを言っても──喧嘩はしたけれど──いつも小葵は俺を信じた」
常の彼らしい穏やかな口調が、途中で少しだけ震えた。それは、この
二人は同じサテンのリボンの裏と表を、少しずれた時間軸で歩いているようなもので、リボンを透かして小葵にはハンフォンの足跡が見えたし、ハンフォンは振り返ればリボンを透かして小葵の姿が見えた。たとえシルエットしかわからなくても──お互い、譲れないことやかみあわないことが、見えない細部にはあったとしても──二人は常に互いの本質の輪郭を、直感的に見ることができた。
リボンが裂け始めたのは、ハンフォンが大学を卒業して、小葵が大学進学を考え始めた頃で、二十二歳と十七歳だった。ぴったりと重なっていたものが少しずつ剥がれて、お互いの道が見えなくなった。
その間に、多くの出来事が層を作っていった。再会したとき、小葵は足を引きずっていて、目には翳りがあり、ハンフォンは偽りの結婚をして、嘘が巧くなっていた。それでも、また層を透かしてみえるようになった互いの姿に、もう一度歩み寄ろうとした。
今、小葵のリボンは断ち切られて、その両端は、ハンフォンが歩いてきた長さよりも短い、永遠に。
ときおり風に吹かれながらも、ぴんと張られていたリボンはある日唐突に断たれ、ハンフォンが振り返ったときには既に、何もなかった。小鳥の羽のような切れ端だけが、記憶の奈落の底に墜ちていった。
「……悪いな。何を言いたいのか、自分でも」
「構わないよ。喋りたければ喋って、疲れたら眠るといい」
セットの崩れた黒髪をかきあげ、ハンフォンは「先にシャワーを使うよ」と言いおいて、席をたった。
ハンフォンのベッド脇には、いまも小葵と共有したiPodと、高校時代から読み込まれた文庫本が置き去りにされている。
かつて彼と聴いた曲を聞くとき、彼と話した本を目にするとき、すなわち記憶の追体験が発生する。リボンをたぐり、遺された足跡をたどる。
しかし新しいものに触れるときもまた、ハンフォンは
これから歩く道に、故人の影を幻視する。
いなかったのだと思い込む、とナジェージダが言った意味を、ようやっと理解した。
そんなことができるはずもない自分は、悲しみの影に囚われるあまり、生きている人間への愛すら見失いそうなのだから。
夫婦の暮らすアパートの裏手には、もうひとつのアパートがあわせ鏡のように建っていて、その一階に小さなバーがあった。Emigre(すなわち、亡命者)という店名が気に入って、引っ越してすぐの頃から、ナジェージダはときどき足を運んでいた。店の前を通る溝があって、一歩で跨げるようなそこに、なぜか小さな小さな橋がかけられていて、そのアーチを踏んで扉を押し開けると、ナジェージダには馴染み深い酒の匂いが、ぼんやりと渦を巻いて首筋にふれた。ウォッカの薫りだ。
狭い店内のカウンターには、ナジェージダと同じ土地にルーツを持つ客が二人、ウォッカを飲んでいた。十年前にモスクワからやってきたというワレンチーナ─いつもナジェージダに洗礼を受けろとすすめてくる─と、ラビを夫に持つ、革命後すぐに亡命した一家の子孫イリーナが、揃ってナジェージダを認めて「あら、ナージャ」と笑顔を見せた。
「ランは元気?」
ハンフォンという名前がうまく発音できないワレンチーナがそう訊ねてきたので、少し迷ったが、正直に話した。「従弟が死んで、ふさぎ込んでるんだ」
女たちは口を押さえ、ジャマイカ出身の店主が、黒く大きな手を広げて何事か祈った。聖書の一節なように思えたが、よく思い出せなかった。
「何度かここに連れてきてたわ。なんてこと」
「彼、繊細そうだから。一人にして大丈夫なの?」
「茶に睡眠薬をいれて、飲ませてきた」
その場の皆が一瞬黙った。ナジェージダはめずらしく居心地悪そうに「…早まったことをするよりましだろ」と言った。
カウンターに座ると、無言でウイスキーが出された。目で礼をして、口をつける。
「……私も
不意に呟いた言葉に、イリーナとワレンチーナは顔を見合わせ、頷く。ここで自分が同性愛者だとは告白していないが、店主は察しているだろう。彼女たちももしかしたらそうだ。迂遠な言い方になるのは避けられないが、思ったことを吐露しやすかった。
「私は、そんなものかとぴんとこなかったけど、今のハンフォンの様子を見てるとなんとなくわかる気がしてね」
ウイスキーを飲み干してしまうと、なにも言わずとも、いつも頼んでいるウォッカがロックで出てくる。ナジェージダはここでアメリカの酒の飲み方を知った。渡米当初の、壜半分のウォッカにジュースを混ぜて雑にアメリカ風にしたものを流し込んでいた頃から、この店には世話になっている。
氷をいれたグラスを持つと、かちん、と球体になった薔薇のような塊が音をたてた。その光の反射を見つめながら、ナジェージダは続けた。
「子を亡くした母みたいに泣くんだ。ハンフォンは驚くほど素直に感情をあらわにするけれど、あれが奴の持ち合わせた
「ナージャ、男でも女でも、大切な人を亡くしたら悲しいわ。けれどもそうね、」イリーナが首をかしげる。「格好をつけないで、悲しいときに悲しいと泣けるのは、彼らしい気がするわね」
アメリカで生まれながら、ロシア訛りの英語を操っているイリーナの言葉を聞きながら、ナジェージダはグラスをあけた。ここにいる人間はみんな亡命者だ。故郷の土に、根を残してきてしまった。二度と戻れない橋を渡ってしまった人々ばかりだった。もはや魂は帰る場所がなく、自分のなかに宿る歴史を証明するものはなにもない。
昔、この国の夏に味わった火花の恋を思い出す。そう、思い出すのだ──既に過去のものとして。今も彼女を想ったりすることはない。少なくとも、表層的な意識のなかでは。新設計のカラフルなメトロや、初めて行くダンスフロアや、七月四日の花火を見ても、もしこれを彼女と一緒に見られたら、なんてことは考えたことがない。
考えたって、傷つくだけなのだから。
結婚指輪の痕がある指の付け根をみつめながら、自分が置いてきたものについて考える夜もないことはない。だが、その回顧や後悔も、無為なものとしてその夜に閉じ込めて置いていく。自分が歩いてきた時間のなかの、いくつかの、二度と戻れない扉の向こう側に、その箱詰めにされた「もしも」は置き去りにされ、一瞬で時の波に浚われる。ナジェージダには帰る港がない。よけいな錘を捨てないと、嵐はこえられない。
これが、すべてを捨てたということだ。
この国で年を取り、関節が節張り、指輪が外せなくなったら、そのときこそが回想を許される黄昏の訪れだと感じていた。
眠りに落ちた夫の睫毛に光っていた、涙の反射を思い返す。鋭い黒曜石の光は、怒りだけでなく、悲しみも内包するのだと初めて知った。その剥き出しの感情の結晶を、ナジェージダはけして作らないし、作り方もわからなかった。閉ざした瞼の向こうで、蒼白い頬をしたハンフォンが、一体どんな風にその涙を絞りだし、結晶させたのか。
グラスのなかで氷が揺れ、きらきらと光る。誰もが沈黙している。ちらちらと見えたかと思えば消える光の粒に、ナジェージダは目を凝らすのをやめて、中身をぐっとあおいだ。
失うのが厭で、だからさよならも言わずに置いていった、その残酷さを持つ自分には。
「私にはわからないよ。私にはね……」
(作中の詩は「アルセーニイ・タルコフスキー詩集 白い、白い日」前田和泉訳より抜粋)
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