Blood Worker 8
ナジェージダ・リトヴァクには父がいなくて、だから色んな人が呼び名に困った。父姓が無いからだ。母のカーチャ・イワノヴィチ・リトヴァクは結婚せず、祖母と叔母夫婦が暮らす街でナジェージダは育った。狭く、何もない街だった。かつての強制収容所跡地が近くにあって、白樺はいつも悲しくざわめいていた。若い女はダンスパーティーに出かけ、男と結婚する。仕事があって、酒を飲みすぎず、女を殴らない男を捕まえられれば万々歳。
私生児で、髪を男のように切り、舞台を愛し、芸術学校に行く女が奇異に見られる街だった。
ナジェージダは、一見ショートボブに見える髪の後ろをかきあげる。深く刈り上げた後頭部の形が掌に伝わり、そのざらつきに落ち着きを覚える。十八歳になり、大学へ入ってすぐに自分で剃った。
モスクワの空港についたのは午前中で、迎えなんてなかった。身軽にスーツケースを振り回しながら、酔っぱらいのように、ナジェージダはモスクワの街を歩いて回った。傷だらけのスーツケースの輝くピンクと、アメリカで買った真っ赤なハイヒール、そして苺色のリップが、十九歳の彼女をまるで西欧からの観光客のように見せていた。
やがて時刻が来て、鳥の名前がついた鉄道に乗りこむと、国旗と同じ色合いをした車体はすぐに馬車馬のように走り出した。内装を眺め、車窓に目をやって、ああ、
靴を脱ぎ、足を置いていたスーツケースを少しだけ開き、隙間から手を突っ込んで、お菓子をいれたビニール袋をひっぱりだす。ひしゃげた箱は、アメリカの空港で買ったチョコレートだ。
パッケージには白と青と赤で彩られたシールがついていて、ナジェージダはそれを無造作に剥がして捨てた。裏地の紙が包装紙に残ったが、その紙も破り捨てて、中身のつやつやしたチョコレートを皿にぶちまけた。三つまとめて口に放り込むと、資本主義の味がした。
目が痛いブルーにおもちゃみたいな白星がついた、パジャマのような赤い縞の旗なんかより、雪の白と、霜の青と、血の赤が地層になったこの国の旗の方が──本当はずっと、ずっと深く、心惹かれるのだけれど。
ぴかぴかのおもちゃみたいな
アメリカに旅行に行こうと言いだしたのは、芸術学校で知り合った悪友で、キューブリック派の彼はタルコフスキーをこよなく愛するナジェージダに、極めて挑戦的に「レッドパージが怖いか」と言った。ナジェージダは彼の背中を蹴飛ばしたあと、友人たちと、ピンクのスーツケースと一緒に飛行機に乗った。
アメリカの女たちは輝いていた。
ゴージャスで、パワフルで、ナジェージダの故郷ならそのまま舞台の上に立てそうなほどにきらびやかで、それが当然だった。
ナジェージダは気後れして、恥じらって、そのあと開き直った。どうせここは知らない世界なのだ。自由の女神の足元で、資本主義経済のあぎとから溢れる品を、メトロのカラフルな光景を、子供のように楽しんだ。
夜の魅惑にも、躊躇いなくかぶりついてみた。それは味わったことのない果実のような、果実の形をした麻薬のようだった。アルコール、スパンコール、ダンスミュージック、女、女、女。女を愛する女たち。
ナジェージダは、十一歳のとき、サンクトペテルブルクの舞台女優に初恋を捧げた。それきり、女のことしか愛せなかった。
故郷の街で、それは誰も想像だにしない行為であり、罪深いことだった。
レズビアン・バーで、アメリカのアートスクールの学生と知り合い、初めて女と肉体関係を持った。その友人とも飲み、知らない女とも踊るようになり、誰かの家のパーティーへ招待された。誰か裕福で放蕩者の学生の家だったのだろう、もう名前も覚えていない。知らない世界で、知らない人間ばかりのパーティーは、夏至の夜に迷い込む妖精の祝祭みたいだった。
そこで、彼女と出逢ったのだった。
今でも瞳に思い描ける、あの最初の瞬間、玄関のポーチで目にした後ろ姿を、振り返ったそのかんばせを。
このパーティー誰でも来ていいの、あの娘なんて高校生よ、と指差しているセックスフレンドの言葉も耳に入らないくらいだった。
ドラッグに浸された彼女が、ふらふらとキッチンに入ってきて、ナジェージダに言ったのだった、「ミルクシェイクを飲みたいの」と。
黒い癖毛を短く切って、耳殻とうなじを出した少女。手足は驚くほど細く長くて、乳房は薄青い静脈がほのかに透けて、熱帯風のグリーンのドレスの胸元で、
あの娘を映像で残しておけたら。彼女の額の生え際の、金に透けた産毛を瞼の裏に描きだす。ナジェージダが作ったミルクセーキを飲んだ唇の、さくらんぼそっくりだった艶を。その感触、皮膚から粘膜に移り変わる官能の波打ち際を舌でたどるあの夜。
あの深い青の目を思い出すたび、湖に石を投げたような、初雪に足跡をつけたような気持ちが想起される。
彼女はアメリカの娘らしく、セクシーで、スポーティだったり、エレガントだったり、ときどきゴージャスだったり、いつも大人のように着飾っていた。でも、あの目は子供の目だ。あんなに底深くまで青い。澄んでいないと、ああは潤んだように光らない。
ツァバール、という言葉を思い出した。イスラエル生まれのユダヤ人を意味するのだが、もとはサボテンの実のことで、外側はトゲがあって堅く見えるのだが、中味は甘い。彼女はユダヤ系の苗字を持っていた。
彼女の名前の綴りを思い出そうとすると、あの破滅的なほどの恋の火が胸を焦がす。肋骨の篭の内側から吹き出る炎が喉元まで焼き尽くす。
ナジェージダは幼い頃から、失われていくことが嫌いだった。花を摘んでおきながら、それが手のひらの熱で萎れていくのを嫌ってすぐに森の奥へ放り、二度と見向きもしなかった。雪でうさぎや、熊や、塔をつくっては、溶けていくのを嫌って踏みつぶした。
祝祭の夏至が終わると、瞬く間に短い夏が褪せていくのが嫌でたまらなかった。
だから、ここでお終いだ、と感じたのだった──あの少女が、自分を愛していると確信した瞬間に。
アメリカを発つその日に、なにも言わずに去った。
花冠が編まれ、花びらも茎も瑞々しく完成された頂で、放り捨ててしまうように。美しいまま、喪失や衰退や、滅亡の足音を聴かないままに。
そうしないと耐えられなかった、発展する未来も変化する愛も望めない身には。
あの娘は美しくて、魅力的で、男性も愛せた。家柄だって上等だろう、あの服と肉体の整えられ方を見れば。ロシア文学もよく読んでいた。頭のいい娘だった。
私とのことなんて、すぐに厭きる。
それならばその前に、遊びで終わらせておかなくては。
十九歳のナジェージダは何度も呟いた言葉を、聖句のようにまた繰り返す。
妖精の国に、人間は永くはとどまれない。
少女は十六歳。
彼女は、世界には破滅的な恋などなかったと思い込むことができる。これから幾らでも素敵なものが待っていると信じることができる。たくさんの映画と、音楽と、小説と、男の子との恋と、ミルクセーキと、白昼夢。
世界にはどうしようもないことなんて無くて、生まれた瞬間に決まっていた地獄なんてものは無くて、遺伝子と血の呪いなんてものも無い。明るくて広々した星空を見て、知らなくていいや、とfictionを通して想像するだけ。
彼女には、そういう人生を歩んでほしい。
ナジェージダは刈り上げた後頭部に夜風の舌を感じながら、胸のうちに燻る火を冷やす。白と、青と、赤い火。
列車は故郷へ向けてつばめのように走っていく。白樺の繁る、母と祖母が暮らす、何もない街へ。
帰るよと連絡をすると、母は、料理を作っておくからと返事をよこした。家にいる母の姿を思い描いて、ナジェージダは目を閉じる。
ナポレオン・ケーキにクリームをのせて待っているだろう母。世界には女を愛する娘なんていなくて、料理と、家族と、風にざわめく故郷の自然がある信じている母。満足による大きな幸福と、愚かさによる小さな不幸しかないと信じている母。
自分の魂の根は、所詮あの何もない街にしかないのだ。あの悲しくざわめく白樺と同じように。雪解け水を吸い上げ、美しい夏から目をそらす。
もしも自由になりたければ、この根を断ち切ってしまわねばならない。
共産主義からの亡命者のように、帰る場所などない根なし草になり、行く先々の水に断ち切れた短い根を浸し、常に異邦人として項垂れながら。
駅に到着した。ナジェージダは列車を降りて、舞台監督には不遜すぎる、とかつて言われた仕草で顎をあげて前をみた。灰色の世界。私の生まれた世界。苺色の唇はシニカルに笑みを浮かべている。
いつか私は、すべてを捨てるのだろう。
二十歳の冬だった。
ナジェージダの住む町において、冬の娯楽は、ダンスパーティーを除けば、スキーやスケート、そして賭け事だ。
ナジェージダは自分のスキー板を担いで、ぼんやりと道を歩いていた。同じ学校の、ボーイフレンドのような、そうでないような男とスキーに行った帰りだった。男は、卒業後にモスクワへ引っ越してもつれていける結婚相手を探しているようだった。キスだけを許して、残りは拒んだ。固くて強引な男たちの体は、まるで鳩の死骸のように感じられた。
女の唇、紅の擦れる感触、ふれあう皮膚に包まれた柔らかな肉の弾み、たわみ、あの魅惑は、この凡庸な街では許されない。
二十歳になる前の日、演劇の教師に呼び出されたナジェージダは、芸術学校での演劇オーディションに落ちたことを知らされた。そして、彼女を落とした理由を教えた。──君の声は、通らない。
それだけじゃないことはわかっていた。本当はずっと前から。背がそれほど伸びなかった頃から、化粧をした顔立ちの翳りは、姫にも町娘にもなれないと気づいた頃から。レコーダーで、自分の凡庸な台詞回しを聞いたときから。
夢は幸福と同じだ。いつだってこの街からいちばん遠いところにある。
幼い頃からなにも変わらない通りを、冬の斜陽を背負って歩く。二十歳のナジェージダがずっと見つめてきた故郷は、この国は、十九歳のナジェージダが垣間見た自由の国、それと同じ三色を旗にもちながら、何もかも自分に許してはくれない。
雪が白くても太陽が赤くても、ここはいつも灰色の世界だ。あの色とりどりの、自由恋愛の
行きつけのバーにでもよろう、とスキー板を担ぎ直し、来た道を少し戻って横道に入った。すると、少し狭く、曲がった道の奥に、古ぼけたバーの看板が見える。店主の愛想もなく、
その臙脂色の扉を押し開け、やっとナジェージダは異変に気がついた。食堂じみた飾り気のない店内で、カウンターでもないところに四人ほどの若者がいて、一人の人間を壁際に追い込んでいる。酔っぱらいの喧嘩か、タイミングが悪い、と肩を落とし、その胸ぐらを掴まれて壁に押しつけられている人間を何の気なしに見た。
ジャンパーを着た華奢な青年だった。まっすぐな黒髪、黄色みがかった肌をみて、最初は朝鮮系やモンゴル系ロシア人なのかと思った。しかし、この地域の流行とは違う髪型や洒落た靴をみて、観光客だと察した。
彼の胸ぐらを掴んでいた若者が、暴力に惹かれて寄り集まってきた仲間たちに、嘲笑と共に告げる。
「こいつ、昨夜×××の酒場で男とキスしてやがった」
ナジェージダの足が止まった。
東洋系の青年は英語でなにか吐き捨てた。その黒い切れ長の目の鋭さに、ナジェージダがはっとしたのと同時に、男が青年を殴り付けた。地面に何かの飛沫がとび、その赤を若者のアディダスのスニーカーが踏みつける。「喋んな、ホモ野郎」
青年はまだ不遜な目で男を睨み返した。無言だったが、今度は腹を殴られて膝が折れる。それでも目は逸らさなかった。
ナジェージダは、彼らの斜め後ろに立っていた。胸ぐらを掴んでいる男の横顔の高さを確認する。きびすを返すふりをして、素早く斜めに背負っていたスキー板を肩を支点に回転させて両手で掴んだ。そのまま横にスイングし、振り向きざまに、思いきり男の顔を殴打した。しなる材質が目元や頬骨を強く打ちつけ、彼は思わぬ痛みに声をあげてナジェージダを振り返った。そのときに力がゆるみ、東洋系の青年が襟を掴む手を払いのけたのがわかり、突然の攻撃に殺気だち、獲物が切り替わるのを肌で感じながら、ナジェージダはスキー板を放り、顎で出口を示す。
「失せな、クズども」
ナジェージダにくってかかろうとした一人を、他の誰かが慌てて止める。「おっさんが怒ってる。やべえぞ」
カウンターのなかで腕を組み、その場にいる全員を睨んでいるこのバーの主が、猟銃の名手であることを知っている不良たちは、実に多彩な罵倒と舌打ち、アディダスの間抜けた靴音をばらばらに響かせて去っていった。
「
ナジェージダは、切れ長の眼と視線があった。殴られた頬は赤く、切れた唇からは朱が滲んでいたが、相変わらずその目は黒曜石のナイフのようだった。ほんの少しの気まずさと、穏やかな誠実さのない交ぜになった表情で、青年は「……
片言の礼に、彼女はいつも通りの皮肉げな笑みを浮かべ、東洋人の青年に、手を差し出した。
「
青年は少しだけ傷が痛そうに微笑み、名乗った。「l'm Hanfeng」
ハンフォン、と、その知らない異国の樹々が擦れあうような音を、ナジェージダは心地よく感じた。乾いた手を握りあい、互いに、同じ気配をもった、孤独な狼同士の目で見つめあった。それが、出逢いだった。
「……お互い縁があったね、同胞。
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