Blood Worker 7

 ハンフォンが初めて男と寝たのは十四歳の夏で、相手は文学の研究をしている三十代の男だった。スラヴ系だったのかは覚えていないが、彼はハンフォンのすべらかな黄色い肌を撫でて、ブルーノ・シュルツの短編からの引用で賛美した。"金色の果肉に、長い昼下がりの芯を抱きつつんだ杏──"、その小説のタイトルを長らく知らなかったし、調べる気もなかったが、十年後に偽の妻となる女から「肉桂色の店」に収録された「八月」だ、と、ロシア訛りのポーランド語で以て教えられた。人生は思わぬ繋がりがあるものだ、と、彼女の舌が魔法のように巻き舌の発音を操るのをみながら、少しだけ感心した。

「私は君の初体験の話を、全く以て聞きたくはないのだけれどね」

「まあ、そう言うな。俺も別に話したくないが、これには訳がある」

「手短に話せ。さもなければ蹴る」

「何を?」

 食卓で向かい合い、夏だというのに熱い紅茶を啜っているナジェージダを、炎の上で愉しく踊る人をみるような目で見ながら、ハンフォンは冷えたジャスミンティーを一口飲み、彼流の淡々とした口調で話し出した。

「俺は基本的にタチトップなんだが、外見はそう見えないと言われる」

「奇遇だね、私もトップだよ」

「その情報は要らない。……まあ、それで、先日酒の席で、同僚からこう言われたんだ」

「ほう」

「"お前は嫁さんとも、女性優位のセックスを好みそうだよな"」

 夫婦の食卓にはクロスが敷かれていない。例えばナジェージダが勢いよく紅茶を噴き出した、こんなときに汚さないためにだ。

「熱っ、いや、汚い! 汚いだろうがナージャ!」

「人がものを飲んでるときに世にもおぞましいことを言うからだよ!」

「俺も言われたときにコーヒーをこぼした。この如何ともしがたい気持ちをお前にも分け与えてやろうと思って」

「意図的に巻き込み事故を起こすな! 死ぬならひとりで死ね!」

 ぶつぶつ言いながらハンフォンが顔を洗ってシャツを着替えてくる間に、ナジェージダはテーブルを拭いておく。わりとこういうことはあるので、手慣れたものだ。二人がまた向かい合って食卓につく頃にはすっかり元通りの調子でまた話し始めた。

「で、その君がマゾヒストで受け身チキンな異性愛者に思われていた話と、君の記念すべき初体験の話がどう関連してくるんだい」

「そこまでは言われてない。……いや、実は確かに、最初はネコボトムだったんだ。リードするのに慣れてないのもあったし、若いうちはボトムのほうが買い手がつきやすくて」

「買い手?」

「聞き流してくれ」困り果てたようにひらひらと手を振る。「相手・・のことだ」

「……本当に、体液を介して感染するたぐいの病気にはかかるなよ。検査はしてるよね」

 ナジェージダのじっとりとした目に、ハンフォンは大人しく頷く。

「まあ、私もアジア系の娘は華奢でかわいいから、抱きたいなぁと思うけど。でもトップボトムを決めるのは外見じゃないし、ましてや他人のイメージではないよね」

 その通り、と言いたげに目を伏せて首肯した夫に、ナジェージダはもの問いたげな視線を投げ掛けて、それから薄い眉をあげた。

「なるほど。つまり、外見および初体験がその後の性的志向に与える影響について君は言いたいのかな」

「まあ、ざっくり言えば。……そういうお前は最初どうだったんだ?」

「そりゃあ私も、最初は教えてもらった・・・・・・・方だよ。こう見えて奥手だったんだ、何せシベリアの凍土からよっこらせと出てきた太古のおぼこ娘だったからね」

 ナジェージダのこういった言い回しは、はたしてロシア独特のユーモアなのか、それとも彼女にジョークの才能がないだけなのか、ハンフォンはいつも悩んで曖昧な笑みを浮かべるだけにとどまる。

「なんだハンフォン、私の初体験についての話を聞きたいのかな? 微に入り細を穿ち語り聞かせてやろうか」

「その無駄な演技力をしまえ」

 故郷では舞台芸術を学んでいたナジェージダが半ば腰をあげつつ言うのを止めながら、ハンフォンは頬杖をついた。ナジェージダはその妙に憂いを帯びた横っ面を張り倒してやろうかと意味もなく思ったが、手を痛めたくはないのでやめた。

「それで、結局君は自分の性行為におけるポジショニングのアイデンティティ・クライシスについて悩んでいる、ということでいいのかな? あるいは他に言いたい内容があるなら直球で言いなよ。いい加減この無為なダイアローグに終止符を打とうじゃないか。こんな品のない不条理演劇があってたまるか」

「お前妙な語彙だけ多いな……」

 感心と呆れが半分ずつの表情を浮かべ、腕をくんだハンフォンはしばらく天井を睨んでいたが、観念したように眼を閉じて眉間を揉んだ。

「実は、恋をしたんだ」

 次の瞬間、熱い紅茶が消火ホースの勢いで吹き散らかされたが、危ういところでハンフォンは避けた。

「ぐっ、ぐふふふっ」

「おい、笑い声が汚いぞ」

 口元とテーブルをまたキッチンタオルでぬぐいながら、ナジェージダは高笑いを圧し殺そうとして余計に不気味な化け物のような唸りを漏らしていた。こんなにも笑いをこらえるのに苦労したのは、二年前に二人が嘘の結婚報告をハンフォンの両親にする際、恐らくは彼史上最高の演技力で「俺の人生をかけて愛したいと思った、たったひとりの運命の女性なんだ」と言い放ったとき以来である。一人息子にはぜひ、同じ中国系の嫁をもらわせたいと考えていたらしいハンフォンの両親は、息子のある意味人生をかけた大嘘に感銘を受け、笑いをこらえるあまり変に泣きそうな表情になっていたナジェージダの手をとって、息子をよろしくと言った。多分、彼らには、恋のために故郷を離れる決意をした健気な女が、結婚を許してもらえるかどうか不安の極致にいたように見えたのだと思う。彼らには申し訳ないとは思いつつ、いつ思い返しても笑ってしまうので、人前では滅多に思い出さないようにしている。

「バーではいつ見ても違う男といる君が? 君にとっては恋なんて一日三度のパンのようなものだと思ってたけどね」

 茶化そうとしたナジェージダは、ハンフォンの表情をみてふと言葉を切る。

「……もしかしてあれかな。これまでのはぜんぶ偽物の恋で今度こそ本物の初恋とかそういうハリウッド的な、ふふ、ぐふふへへ」

「ナージャ、離婚するか?」

「おっとすまない」どうにか顔を引き締め、紅茶を飲もうとしたが、噴き出しすぎてもう残ってなかった。仕方なく空気を啜り、カップを置いてから、無言でハンフォンの言葉の続きを促す。

「……店で会ったわけじゃないんだ」

「ああ」すべてわかった、という顔でナジェージダは首を振った。

 彼の言う"店"(つまり、自分のセクシャリティを公開する特別な場)以外──職場や、カフェテリアや、公園や、ふとした日常の隙間で恋に落ちたって、異性愛者マジョリティとは前提が違うのだ。相手がそもそも同性を愛せる人間なのか、外見からはわからない。

「そりゃやめときな。といってやめられるものでもないけど、下手に動いたりしちゃいけないね」

 恋愛対象として見ていることすら伝えるのを躊躇うものだ。最悪、恋をしたというだけですべてを失う覚悟をしなければならない。セクシャル・マイノリティとはそういうものだと、常に大きな集団コロニーから外れて生きてきたふたりには、痛いほど理解できている。空っぽのカップの取っ手に指をかけて、ナジェージダはため息をついた。心の傷にはとうに慣れたが、亡命者に等しい根無し草の自分は、足場まで失ってはならない。それは、目の前の東洋的な面立ちをした男も同じはずだった。奇妙な連帯感と、多少の緊張感を伴った共犯者は、ゆっくりとエキゾチックな香りのする茶を飲んで、思案げにこう続けた。

「……だから相手が不馴れなことも視野にいれて、俺がボトムに回ることも考えた方がいいのかなって」

「手を出す気満々じゃないかこの色情狂」

 思いっきり頭をはたかれたハンフォンがジャスミンティーを溢しかけ、「いい器と茶葉なんだぞ」と怒る。葡萄の葉が彫られたガラスの茶器はなるほど彼が南満州の実家から持ってきた芸術品ではあるが、その中の茶葉の旨味などロシア人のナジェージダにとっては知ったことではない。彼の文句も意に介さずもう一度叩いた。「心配した私が愚かだったよ」

「まあ、これは皮算用だけれど、でもきっと彼なら俺のことを気味悪がったりしないと思うんだ。なんだかそういう運命のような気がする。たとえ付き合えなくてもお話ししたい。うん、今度話しかけてみよう」

「乙女みたいなことを言うな気色悪い。もういいからさっさとお茶するメールでもなんでもしておけ、そして願わくば私に迷惑がかからない形で玉砕しろ」

 この会話のしばらく後、ハンフォンが件の想い人と無事関係を築き、彼を迂闊に家に招いたことで夫婦間にまたひと悶着あるのだが、このときの彼らにとってそれはまだ預かり知らぬことであった。

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