Blood Worker 6─EP3-3

 学校が終わると、寒楓ハンフォンは大抵、チャイナタウンの中華料理店に行って、店先にいる老人に声をかける。新学期が始まって少し、裏庭─と呼べるほどの面積があるのかさえ疑わしいが─の柘榴の木から、花が落ちて、道路の方まで風に吹かれて転がってきた。

阿公アクン小葵シァオクィは?」

 言い終わらないうちに軽い足音が勢いよく近づいてきて、細い店舗脇の外階段を駆けおりてきた小さな体が寒楓にぶつかる。笑いながら受け止めて、持っていた教科書でその頭を軽く叩く。老人が歯を見せて、その頭を撫でる。

「おう、ちび、配達は終わったか」

「ちびじゃねーもん」

 舌ったらずな中国語で返す従弟をしがみつかせたまま、寒楓は小さな耳に言い聞かせた。

「今日は物理学ウーリーシュエの課題があるから、遊ぶのは終わったらな」

物理ウーリー? なにそれ、楓哥フォングァ、英語で喋れよぉ」

「中国語がわからないなら阿公じいさんに教えてもらえ」

 野菜と魚を煮る匂いがしてくる厨房の横を通り、階段を上って二階へ行こうと促すと、ちょっとだけ小葵が足を踏ん張ったのが感じられた。だだっ子を相手するときと同じように寒楓が目を合わせ、視線で問いかけると、少し拗ねた口調で小葵は呟いた。「家のなか、ちょっと騒がしくすると一蘭イーランが泣くからイヤなんだ」

「俺たちの"ちょっと"が"ちょっと"じゃないからだよ。可愛いじゃないか」

「可愛いけどさ」

 膨れっ面をする様子を、素直だなと思う。まだ幼い従妹を起こさないように、二人でそっと店舗の二階へあがると、開け放した窓から、秋の乾いた風が吹き抜けた。百日紅のちぢれた花びらが舞い込んで、二人の足元に落ちる。濃いピンクの、驚くほど細かい襞のゆたかな花は、彼らの従妹の産着についていた飾りに似ていた。

「楓哥、楓哥は学校、ウザくねえ?」

「え?」

 不意の問いに、少し腰を屈めて聞き返すと、琥珀色の瞳が寒楓の意識をとらえて小さな唇が動いた。─だから、ホワイトとか、ブラックとか、イエローってことで。

 ─ああそうか。学校で何か言われたんだな、小葵。チンクだとか?

 ─うん。ファッキン・チンクってからかってくるんだ。上級生がさ。俺だけじゃないよ、ユウキもマンヨンも、中国系じゃないのにチンクって言われる。

 ─二人とも日系だっけ。いや、マンヨンは韓国だったか。

 ─そう。楓哥、チンクって中国人をバカにする言葉だろ。二人はそもそも国が違うし、俺だってじいさんよりも前の代からずっとアメリカ生まれなのに、きっとあの上級生、言葉の意味もわかんないくせに使ってるんだ。ばかだな。

 ─はは、そうだね。俺たちよりばかなくせに、俺たちをばかにしようとしてるんだ。そう思うと笑えないか、小葵?

 ─笑えない。ふつーにムカつく。

 ─うん、俺も言ってから思った。ごめんな、ごまかそうとして。

 ─楓哥、自分がイヤな思いさせられたときに自分のことごまかしたくなるの、わかるけどよくないと思う。怒らなきゃダメだって。

 ─……うん。小葵はよくわかってるな。でも、怒ってはいけない。なぜなら、俺たちでは体格で勝てないし、それに……

 ─人間らしくあれ、ってことだろ。怒りに任せると、獣になっちゃうから。

 ─そのとおり。つまり、慈悲深くあれってことだな。イヤなことをされたとしても。

 声を出さずに唇だけで会話することを、二人は覚えていた。彼らは、友人に聞かれたくないときは中国語で、家族にも聞かれたくないときは無音で、足りない部分は目で会話していた。寒楓の冬の薄明じみた、ほんの少しだけ黒よりも淡い濃色の瞳と、小葵の水平線から現れる瞬間の太陽光のような、金に近い琥珀色の瞳は、格別相性がよく、まるでひとつの景色をつくるように互いの意思を伝えあうことができた。

 ─…わかったよ。楓哥がイヤなことは、だいたい俺のイヤなことだもん。楓哥がそうするなら、俺もそうする。

 ─はは、そうだな。なあ、小葵。もっと他にイヤな思いをしたことはあるか?

 ─あるよ。たくさん。楓哥もあるんだろ。

 不意に、隣の部屋から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。二人は一瞬そちらの壁をみて、母親たちの足音や、祖父の笑う声、叔父のおどける声が重なるのを聞いて、また視線を交わし会う。二人の間にだけ音はない。

 ─俺、なにがあっても、楓哥にだけは話すから。だから、楓哥も、つらいときは俺にいって。子供だと思って、ごまかさないで。

 ─うん、小葵。嘘をつくには俺たちは互いに近すぎるね。お前は八歳の俺で、俺は十三歳のお前なんだ。

 約束するよ、わが魂の双子。



 葬儀の朝、中華料理店の裏庭で、雪が溶けて固まった塊を見ていると、従妹の一蘭イーランが声をかけてきた。

「誰がやったの」

 ハンフォンが振り返って彼女の顔を見ると、黒い火のような瞳とまっすぐに目があった。昔の自分達と同じ、高校生とは思えないほど小柄な体に、抑え込んだ怒りや悲しみが、つめたく燃えているのがわかった。

「誰がジギーを殺したの、ハンフォン兄さん」

「……一蘭イーラン

 彼女の身を包む黒の喪服は、アメリカ的で真新しい。部屋のなかにいる弔問客は、ダークスーツや白い服に喪章をつけていたり、それぞれの文化に従った格好でいる。ハンフォン自身は、白い喪服に黒の喪章をつけている。これを仕立てたのは一年前だった。病気の曾祖父や、そろそろ高齢になる他の親戚のことを考えながら作った。小葵シァオクィも一緒だった。

 小葵の無地の喪服は、一度も袖を通されることはなかった。

 昨晩からずっと柩に付き添っていたハンフォンは、従弟が着せられていた濃紺の寿衣しにしょうぞくの刺繍を覚えてしまった。

 辛抱強く、黙りこくったハンフォンの返答を待っていた一蘭に、掠れた声でやっとかえした。

「…まだ絞れない。目撃者はいたけど…人が多すぎた」

「なんでジギーなの? 通り魔はどうやって殺す相手を選んだの?」

 剥き出しの鋭い口調は彼女の苦痛をあらわしていて、辛さで砕けた心の破片なのだとわかっている。それでも平常のように返事をすることは難しくて、ハンフォンは唇を引き結んだ。

 溶血を引き起こす能力。SPLEENと名付けられたその能力者たちの情報は開示できない。通り魔、という説明では誤魔化しきれないことはわかっていたが、これ以上は話せない。

 部屋のなかからは、小葵の母親の声にならない泣き声が聴こえてくる。ハンフォンの母親と、一蘭の母親が慰める声も小さく聴こえる。男たちの、沈んだ低い話し声もする。

 息子が海兵隊に志願したとき、小葵の母親が泣いて止めたことを知っている。国旗で包まれた柩で帰ってくる若者は、多くはないが少なくもない。このヘンリー市内でも、軍の黒い霊柩車を見かける頻度は低くない。

 どうして、生きて帰ってこられたのに。

 人生の黄昏を前にして魂のように大切だった存在を失った親たちの、嘆きの声が耳にはりつく。自分がDEFENDERになると伝えたときの母の様子を思い出して、やめてくれと叫びたくなった。あの表情を見てしまったから、ハンフォンは一生真実を母に告げることはできなくなったし、親を悲しませる子としての咎を負うことになった。親よりも先に死んだ小葵と同じように。二人は罪も揃いであるのだ、魂の双子であったがゆえに。

 いや、そうであると祈りたかっただけなのかもしれない。

 彼が死に、自分だけが生きているという事実が耐えがたかった。

 擦りきれた心でぼうっと目を開けていると、凍える風と彩度の低い光景が、幻を視せる。

 十五年前の夏の午後、この狭い庭で、ハンフォンと小葵は、蝋を垂らして、蟻を殺した。白い蝋のなかでもがく蟻を見て、さっきまで蝋燭の火に夢中だった小葵は、自分のしたことに怯えたようにハンフォンに身を寄せた。ハンフォン自身も、空を掻く蟻の脚から目が離せずに、従弟の小さな体を抱きすくめた。

 あの夏、ひしめきあう緑が滴るような庭には柘榴の花が咲いていて、蜜蜂が飛びまわっていた。

 喪服の下の肌を刺すような寒さのなかで、白昼夢の熱が、皮膚の内側を這い回った。

 あれが罪というのなら、自分も同じ罰を受けるべきだ。

 土が混じり、煤けた蝋のようになった雪を靴先が削る。

 彼が何をしたというのか。

 殺されなくてはならないほどの罪が、彼にあって、自分にないとでもいうのか。

 ──寒い、さむい、こわい

 ──死にたくない、たすけて、哥哥にいさん

 痙攣する冷たい指が、最期に握った手に残る感覚をまざまざと思い出し、ハンフォンはこらえきれず踞った。一蘭が駆け寄り、黙ったまま肩をさする。小さな手の熱に、余計に苦しくなった。

「ごめんなさい、ハンフォン兄さん。あたし訊きすぎた」

「……裁けない、かもしれない」

 ハンフォンの呟きに、一蘭の言葉と手が止まった。

 SPLEENは、本能的に特異体質者に強く殺意を抱く。本人の意思とは裏腹にであっても。持病の発作や、特性と同じようなもので、それを殺人罪に問うことは果たして可能なのか?

 彼らもまた被害者だ、という声を聞く。Eveの血に冒された犠牲者だと。ハンフォンもそう思っていた、どのような理由にせよ、SPLEENは理不尽にその本質を侵害され、支配された哀れな人間であり、人間は同じ人間に対して常に慈悲深くあるべきだと思っていた、ほんの数日前までは。

 路地裏に連れ込まれ、暴行された痕跡さえ残る従弟の遺体を目にするまでは。

 殺すつもりなんてなかったのかもしれない。そういったSPLEENを見てきた。別人になったように、あるいは催眠にかかったように、勝手に手足が動くのだと訴えた。彼らは拘束され、取り調べを受け…その後は? Eveを討伐したとして、彼女の蒔いた種から芽吹いた花はいったい?

 答えはまだ出ていない、法には限界と矛盾がつきまとう。その枠から溢れてしまえば、司法では彼らを裁けない。裁いてはいけない。ハンフォンは譫言のように呟きながら、踏み荒らされた雪がその足跡の形のまま凍った痕を睨む。刑が課されることはないかもしれない。

 しかし罪は残るはずだ。

 だとしたら。

 命には命で償わなくては。

「ハンフォン」

 少年じみたかすれ声で名を呼ばれ、はっと意識を取り戻す。いつの間にか一蘭の手は離れていた。

 かつて蟻を殺した柘榴の木下闇に、ダークグレーのスーツを着たナジェージダが、じっと佇んでいた。冷たい季節の似合うかんばせで、その瞳は凍りつくような青だった。

 あの晩の、彼女の言葉が甦る。

 ──私の言うことがわかるか、ハンフォン──要するに、正気でいろ・・・・・、ということだ。今は──今だけは。

 それができないのなら──

 頭のなかに響く声に、もうたくさんだ、と、耳を覆って喚きたかった。実際にほとんど叫びかかっていた。声だけが喉の奥で死に、受けとるもののいない無音を吐き出す唇だけがわなないた。魂の片割れは殺され、戦争の爪痕は消えず、余多の遺伝子は汚され、慈悲なんてない、血の雨が降る世界には化け物ばかり。どうして自分だけが未だ人間でなくてはならないのだ。

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