Blood Worker 5
「来週の土曜、なにか用事があるか?」
いつものダイバーズウォッチをつけながら、ふと問いを投げかけてきた夫に、ナジェージダは
「……いや、無いけど」
「そう警戒するな。別に親との食事とかじゃない」
「ならいいや」
「恋人を
時が止まった。具体的には、ナジェージダのフォークと開きかけの口が。
厳かともいえる口調で言いきったハンフォンの目尻が、ややあって紅潮し、視線が揺れる。「……いや、まだ恋人というわけじゃないんだけど。好きな人、というか」
「そこの正確性はこの際どうでもいいんだよ。照れるな気色悪い」
「朝から切れ味がいいな、ナージャ」
「体内時計がモスクワ基準なのでね。で、何? 邪魔をするなってことならむしろこちらから喜んでどこか遊びに行くけど」
「そのことなんだ」
身支度を終えたハンフォンは、改めて食卓の、ナジェージダの正面の椅子に座り直した。指を組み、深刻な表情をつくって切り出す。
「その…誘ったとき、彼にこう言われたんだ。"君たちご夫婦の家はとても独創性がありそうだね。楽しみにしているよ。奥さんにもよろしくね"って……」
「はあ。んで?」
「これ、もしかして夫婦で招いてるって思われたのかなって」
「いやそれは無いんじゃないか、状況にもよるけど。いつ誘ったんだい。向こうは君の気持ち、というかセクシャリティを知ってるんだよね? だいぶ仲よくなってから?」
「この間、セックスしたあとに……」
「惚れた相手とのピロートークで妻と暮らしてる家に誘うバカがどこにいるんだ? それは中国特有の文化か何か? マジで気でも狂ったのか? ドラッグはやめておけとあれほど」
ナジェージダのマシンガンのような罵倒を疲れきった表情で制しながら、ハンフォンは力無く首を振った。「緊張したんだ……」
「セックス後に? なぜ? 前じゃなくて? 内容に問題が?」
「頼む、いじめないでくれ。俺も動揺したんだ」
「あれだけ男漁ってて動揺もなにもあるもんか。惚れた相手に弱すぎだろう。メンタル童貞王って呼んでやる」
とうとうハンフォンはテーブルに突っ伏した。きれいに揃えられた爪が往生際悪く机の上を這っていたが、やがて波打ち際のヒトデのようにぐったりとした。
ナジェージダは深々とため息をついて、目玉焼きのつやつやした膜を破る。どろりと溢れてきた黄身を白身で絡めて長い舌で巻き取りながら、獲物をいたぶる獅子のようにハンフォンを一瞥した。
「……まーあ、君がね、その彼をこの家に呼びたいっていう気持ち、わかんなくはないよ。君の心にいちばん近いからね」
言いながら「ただひとつ言っとくけど」と、トリトンの槍のように、フォークの切っ先をハンフォンの額に据える。
「ヤったら殺す」
「それについては本当に気を付ける」
以前、ナジェージダが、朝日が射そうかという時間帯に上機嫌で"友人"の家から帰宅したところ、居間にて、誰か"友人"と、とてもここでは書けないような行為に耽溺していたであろうハンフォンがソファで寝こける姿が目に飛び込んできて、せっかくのハッピーな気持ちが雲散霧消どころか怒髪衝天し、勢いのまま夫の背中に跳び蹴りを決め、しばらく消えない痣を作った。
目玉焼きを食べ終えたナジェージダは、フォークを置いて改めてぐるりと部屋を見渡してみた。古くて狭い部屋で、TVも素敵なチェストもない。代わりに、木の幹から生えたサルノコシカケのような簡素な棚が、古い花模様の壁に点在して、それぞれにみっしりと物をのせている。緑の
床には、ハンフォンが風水的に大事だといってきかない、肉厚の葉が鬱陶しく繁ったサボテンの鉢植えの隣に、ナジェージダが置いた、故郷の本物よりも大きなヒマワリの造花。完全に意地の張り合いになっているが、お互いに神を信じているわけではないのが救いで、聖画と仏像が隣り合う宗教戦争は起こっていない。
心にいちばん近い、と言った意味を自ら考えながら、ナジェージダは視線を、向き合って座る夫に向けた。
「……まあ、話はわかった。そういえば相手の話は聞いてなかったな、どんな人なんだい」
ハンフォンの肩が少しこわばり、目がふらふらっと斜めの方へ向く。ナジェージダの表情からすっと温度が失われる。
「………………同僚の、リ…ミスター・ホーナー」
「
胸ぐらを掴まれたハンフォンは両手をあげて「これには深い訳があって、いや、本当は無いけど」「正直だな。バカとも言う」「聞いてくれナージャ。大丈夫だ、俺たちのことが職場や身内にバレる心配はない。彼はそんな人じゃない」
「彼のことを信用してないんじゃなくてお前のガードの緩さにキレてるんだよ私は! そんなんだとすぐに別のルートからバレるに決まってるだろ、だから男漁るときは職場とチャイナタウンから遠いところにしろって言ったろうが!」
「いつもそうしてる、そうしたら偶然会って…元々気になってて……」
「偶然会ってヤるな! 惚れるな! セフレになるな!」
「好きなんだから仕方ないだろ!」
堪えかねたように叫んだハンフォンに、ナジェージダは思わず黙る。りん、と部屋の空気が共鳴し、それから静まり返る。白人よりも寡黙な彼の象牙色の肌は、今は耳まで朱に染まって、眉は苦しげに寄せられていた。
ナジェージダはハンフォンの襟から手を離し、腰に手を当てた。
妻の様子に、怒鳴り返されることを予想していたハンフォンは、訝しげに彼女の顔をみた。前髪が葡萄の蔓のように垂れ、半ば隠された表情には、年老いた人間が、叶わなかった夢をフィルムで見るような色がにじんでいた。
「……好きなら、仕方ないな」
ハンフォンは戸惑って「ナージャ」と呼びかけたが、彼女は既に空の皿とフォークを持って、ハンフォンに背を向けてシンクの方へいってしまった。そこにかける言葉を選びかねて黙っているうちに、振り返らないままにナジェージダが片手をひらりと振る。
「私は来週、出かけるよ。
波打つ黒髪の垂れ落ちる背に、ハンフォンは声を出さないまま、小さく頷いた。
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