Blood Worker 4 ─EP3‐2
ナジェージダの寝室はシンプルだ。アメリカ人のように、ベッドの周りにやたらキャンディだとかを置いたりしないし、信心深い祖母のように正教会のイコンを飾ったりもしない。ただ四角いダークブルーのシーツに、枕はない。抜けた髪がシーツにつかないようにタオルが敷いてある。
サイドテーブルの上に、ナジェージダは脱いだ服を放って、目覚まし時計の設定が正しいか確かめる。それから、ふと思って、クローゼットの中の喪服を確認した。化粧品を入れたバスケットを見下ろして、一番地味な色の口紅を探す。
葬儀には行けるのだろうか。端末に表示された文章が脳裏にちらついた。グリーンの文字列。EDeN─Eve──
ナジェージダが帰りついたとき、アパートの室内は暗く冷えきっていて、ハンフォンの姿はなかった。夜のなかへ、泳ぐようにふらふらと歩いていった夫の背を思い出して、ナジェージダはため息をついた。ブーツを脱ぐのも億劫で、毛羽立ったコートの表面についた溶けた雪の水滴が、首筋に触れて体を震えさせた。ハンフォンの実家へ電話しようとして、今は忙しいだろうとやめた。それに、そちらへ行ってるとも思えなかった。
安いアパートは、部屋数を優先して選んだせいで間取りが奇妙だった。ふたつのプライベート・ルームは長く細く、あなぐらに似て、ハンフォンは肩をすくめて「コックピットだと思えば広い方だ」と言った。ふたりはそれぞれの部屋に、ベッドと本棚を置き、食事だけを同じ空間で摂る。
何もする気になれず、食卓の椅子に腰かけていたナジェージダは、ふとキッチンに本が置いてあることに気づいた。色合いから、自分の蔵書でないことはわかる。ハンフォンが自室に戻していないのだ。
その少し開き癖のついた本をぼんやりと眺めて、ナジェージダは額に手を当てた。物音のしない部屋で、前髪の擦れる音だけが雨のように聴こえた。
寝室に繋がるふたつの扉のうち、右側がナジェージダのものだ。重たい体をずるずると持ち上げてノブに手をかけ、ちらりと隣の、閉ざされた扉に目をやった。
夫の寝室に入ったことはない。
いつの頃か、ここに引っ越した日の数日後だったろうか。寝室を誂え終えたハンフォンが、満足げにナジェージダに、部屋の様子を見せにきたことがあった。君の部屋に興味はないよ、と言ったが、扉から覗いた狭いハンフォンの寝室は、彼なりのセンスで整えられ、ナジェージダからみたら不思議な位置─風水的にベストらしい─に置かれたベッドの上には、ソファ代わりにするためなのか、ふたつクッションがあった。
お互い、恋人と家で逢い引きしない、というのは結婚するときの掟になっている。だから、あの部屋は、恋人のために整えられたものではない。だが、誰かが入ることを想定されていた。
子供部屋のベッド脇で遊んだ頃と違って、大人になってから寝室に通す人間なんているのだろうか、とナジェージダは思ったが、そのとき不意にわかった。
子供時代の延長。彼は"弟"のために、あのクッションを置いていたのだ。
──俺と小葵は……従兄弟どうしだったけど、魂の双子みたいなものだった、昔は……。俺が就職するまでは……小葵が軍に入るまでは……。
粉雪が耐えがたい重さのように体を折り曲げて、絞り出すように呻いたハンフォンの声が、耳から離れない。
昨日の今ごろに死んで、胸から腹をY字に切り開かれて臓器の重さを量られて、今は血を抜かれ、氷と同じ箱に詰められているだろう彼の従弟を、殺した
やまない雪の夜をさまよっているハンフォンは、誰を探しにいったのだろうか。
彼の魂の双子のゴーストなのか、殺人犯なのか、それとも。
ナジェージダは立ち上がって、本棚の方へ行った。自分が知っている、夫にとって大切な存在は、もう
月明かりを頼りに、英露辞典の隙間から白い便箋を取り出した。
サイドテーブルから服をどけ、便箋をそこに置いた。文鎮や下敷きもないので、読みかけのヘミングウェイを敷いて、ペン先を滑らせた。
親愛なる、わが夫の恋する人、ミスター・リンデン・ホーナー。
奇妙な宛名に苦笑して、ペン先が紙面から離れる。インク溜まりが青く光った。しかしそのうちに頬から乾いた笑みは消え、また銀のペン先が走り、流星のようにアルファベットを綴っていった。
─これから、近い未来、我々も─もしかしたらあなたも、死地へ赴くだろう。
─あなたが
ハンフォンの従弟のことを書こうかと迷って、やめた。殉職者の情報はすぐに職員全体に伝わる。
─もしもハンフォンが早まったことをしようとしたのなら、あなたの声で止めてほしい。
─彼をつなぎとめられるのはあなただけ。
─こうした危険なことをあなたに頼むのは心苦しい。あなたにはこれを、読まなかったことにする権利がある。彼が死のうと、私はけしてあなたに何か言うことはない。あなたが無事でよかった、以外は。
ナジェージダは傾いた英語を綴りつづけた、幾つかの綴り間違いをインクで塗り潰しながら。その痕跡は、青い薔薇のように見えた。
─けれど、彼を救ってほしい。
─かつて彼が、あなたに贈った花束の意味が伝わっているのなら。
─もしもあなたが、彼を愛しているのなら。
窓の外は、月光を透かして、数えきれない雪の粒が、星のように世界をおおっていた。指先がかじかみ、インクが擦れた。
手紙を折り畳んで、心臓の形にする。戦闘のための無骨なジャケットのポケットにそっと落とし込み、隠した。自分はこれを彼に渡せるだろうか。
顔をあげると、窓から平行四辺形に切り取られた夜がみえた。まだハンフォンは帰らない。部屋の中にも、真っ青な影が降っている。朝にはこの雪がやんでいるといい、と思った。
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