Libertaris 春の雪

 ─春の瞳。

 生まれたときからノーレ・D・ドーレストが讃えられたのはその朝焼けの縁取りがなされた雪融け水の瞳の色であり、そして豊かに波打つ新緑の髪の艶だった。

 ドーラーと呼ばれるその地域の人々にとって、冬のあいだ眠りつづけた女が産んだ児は特別だ。ノーレの母親は、秋の終わりの日に塔の上で眠りに落ち、春の初めの日に目を醒まし、穏やかにノーレを産み落とした。この秋だとか春だとかは暦の上のことに過ぎず、その眠りのあいだ変わらずその土地は吹雪に閉ざされていたのだが、ノーレの生まれた日に、雪はやんだ。

 ノーレが生まれて七年後、冬の初めの日に、妹が生まれた。

 秋の終わりに寝台に入った母が、陣痛と破水を訴えて飛び起きた冬の夜更けに、血の海のなかから妹は生まれてきた。その晩の吹雪は赤子の泣き声のように激しく、千の白い稲妻がドーラーの邸に落ちたようだった。

 妹は氷河のような銀髪に、血と羊水を凍らせたような目をもっていた。人々はニールと名付けられた妹のその髪を、妖精の鎧だと呼び、小さな手に剣を握らせた。

 ノーレ・D・ドーレストが、ニール・V・ドールをしっかり妹として認識して近づいたのがいつの頃か定かではないが、生まれつきぼんやりとした彼の視界のなかで、妹の「妖精の鎧」だけはいつも虹のように輝いて見えて、皆がよろこぶ星というのはきっとこういうものなのかと彼は思った。目がよく見えない彼にとって、空というものは、温度や湿度の層の変化から天候を割り出し、飛ぶ鳥や、時にはなんらかの魔法的な実体を感知するための空間でしかなかった。そこにかかる二重の虹も、満天の星空も彼に見えはしない。それを見た人々の笑顔や、ほら! と指差す手の動きと熱を感じるだけだ。


 ドーラーの一族のなかで、生まれたときに徴のあるものだけがドーレストの名を与えられる。それ以外はドールと呼ばれる。ノーレはあらかじめ選ばれていた、その新緑の髪と生まれた日によって。春が尊ばれるその土地で、弱視でありながら四つの丘の向こうまでを知ることができるノーレは、春の加護をうけた特別な児だと呼ばれた。一族の他のものと同じように、首に編んだ髪をかけた七つの日からは、七の丘を超えることができた。命を代償にする魔法は、ドーラーの地では当たり前のように行われていた。


「僕は鳥だ」

 雪崩のような裳裾を床に広げて、背の高い椅子に腰かけている兄の前に立ち、真新しい軍服の妹は宣言した。

「兄貴みたいに、動かずして掌握することはできない。でも、僕は翔べる。闘える。──目が見えるから」

 そう言いきった語尾が、微かに震えていた。幼い頃から、ニールがノーレの視力について口にすると、父がそのたびにニールを折檻した。才能ある存在の妹が、嫉妬のために、兄をめくらと呼ぶことを厳格な人々は許さなかった。いつでも、彼女は二番手として扱われる鬱憤を口のなかにとどめていた。とうの兄が、気軽にそれを許すまでは。

「僕は──兄貴を──超える」

 ノーレは瞼をあけて、ぼんやりとした朝陽のなか立つニールの、星のような髪の輝きを見つめた。

「……ああ。お前は俺を超えられるだろう、我が妹」

 むっと華奢な肩を怒らせ、踵を打ちならしながら、ニールは裾を翻した。

「……兄貴はいつもそれだから! 張り合いがないんだよっ、もう!」

「怒るな、怒るな。背が伸びないぞ」

「もーっ。今に見てなよ! 騎士団最強の女になってやる!」

「うん、うん。お前ならなれるよ」

 ニールはふくれっ面のまま、兄の部屋を去ろうとしたが、振りかえって「……兄貴もがんばってよね、僕の超えるべき、壁として」と、ノーレからすれば可愛らしい憎まれ口を叩いた。そのあと、きびすを返して、靴音高く部屋を去っていった妹の、首に巻いた虹色の三つ編みが、妖精の羽のようにきらきら光っているのだけが、ノーレの朧な視界には映っていた。

 妹の堂々とした背中を追う。なびく編んだ髪、つめたいなかにも花の気配を孕む風、扉を抜ける。部屋のなかに座したまま、ノーレは世界をおおうヴェールを紡ぎ、透明な蔦を空間にはりめぐらせる。これがノーレの「眼」だ。

 荘園で働く娘たちの背格好も、厩舎の馬の数も、飼っている鶏の雌雄も、空気のヴェールを編む繊維を通して、ノーレの指先に伝わってくる。雪を払って香草を摘む娘の結った髪、竈で火をあやつる少年の顔の痘痕、雪に足跡を残す衛兵の槍に止まる燕。そのままドーラーの領地を抜け、木々の透き間を抜け、岩の窟に下がる氷柱をひと撫でし、狐の尻尾をつかむ。

 しかし、その狐の毛皮の色も、娘の上着の模様も、衛兵の髪の色も、ノーレにはわからない。けれど、ノーレは眼を閉ざしたまま思っている。それらの色は、きっと、妹のあの、星と虹のなかにみえる輝きなのだろう。


 ノーレは、己の世界が薄闇に包まれていることを惜しいと思ったことはない。生まれたときに心に宿っていた名前と、あのとき見たほのかな虹の光が、彼の魂をあますところなく照らしてくれている。

 己にとっての光は、大切な人間のことだ。

 そのためならば、永遠の沈黙を選ぶこともできるだろうと信じている。それぞれが抱く光のために、代々ドーラーの人々は、命と引き換えにその力を手に入れるのだから。

 首に幾重にも巻きつけた、竜の鱗のように輝く髪を撫でる。この呪いは厳格だ。ノーレはその清廉と捧げた。ひとたびこの喉を嘘が通り抜ければ、このまじないの蛇は容赦なく捻り切るだろう。だから、ノーレはただの一度も嘘をついたことはない。

 だが、真実を告げることが、誰か大切な人間に危害を及ぼすときは? そんなこともありえるだろう、この氷の国に敵は多く、闇は深い。

 だから、たとえ何が起きたとしても、覚悟はできている。ノーレはそっと、閉じた瞼の裏に、天から授けられた真の名を綴る。

 最果てに訪れる春ヴォーレンノルニシュカ

 これが己の運命、さだめられた新緑の魂。世界のどこかで雪が降り、ノーレの透明な魔法の上に白い花を散らしていく。それは光によって与えられる、目覚める世界、春の息吹、誰かを守るための七つの丘を超える風、これは真実の誓いのものがたり。

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