メタンフェタミン・ドクトリン
ピンク・スパイヤー (香満香)
攻め・香坐坂 白夏(かぐらざか・きよか)精神科医、プロファイラー。犯罪被害者・捜査関係者のカウンセリングも行っている。
受け・満庭 冬朱(みつるば・とあけ)※よそのこ 警察官。香坐坂のカウンセリングを受けている。
「さあ、目を閉じて」
横たわったソファは、ただの白というには複雑すぎ、ぴったりの表現を探すには淡すぎる色をしていた。生成りというのか、それとも別の名前があるのか、
「どうかしましたか?」
ぎこちなく、頬に触れるソファの生地を指で確かめていた満庭に声をかけてきたのは、ソファよりもう少しだけ濃い色をした金髪の男だった。
「ああ、いや……ここは何度か来たが、全く慣れないなと思って」
金髪の男──
「あなたはいつも率直ですよね。素敵です」
彼は、いつも見かける姿の白衣は着ておらず、白の開襟シャツを着て、紫と青の、あざのような色合いのスカーフを首に巻いていた。
無菌室のように無臭で無音で、温度と湿度はかぎりなく人の肌になじむように調整された空間は、診察室と呼べばそうだった。しかし、二人きりになったときに限ってはときどき、違う名前が相応しいのではないか、と満庭には思われた。
主治医というには、すこし近くなりすぎた。
香坐坂は腰を屈めて満庭に語りかける。
「アロマかなにか用意しましょうか? 人によっては、そういうものがあったほうが落ちつくことも、ありますよね」
「いや、お気遣いなく。……」
「そうですか。…少し、風は入れましょうか」
窓に歩み寄った香坐坂の背を目で追うと、窓辺のシンプルなラックに置かれた卵の殻のような、つや消しの白い器に植えられたピンクの花に眼が引き寄せられた。ブラシのようだ、と満庭は思った。
その視線に気づいた香坐坂は、花に目をやると、
「ピンク・スパイヤーという花です」蜜蜂殺し、と呼ばれるそうですよ、と微笑み、窓を開けた。
ぬるい風が吹き込み、ふわふわと室内を漂う。それに揺らされて、ぶわ、と窓枠を超えて、紅に見紛うくらい濃いピンクの花房が部屋に入り込んだ。
枝がたわみ、窓の外の風が渦をまいて室内にすべりこんでくる。
「この時期は百日紅がよく咲いていますね。わたしはあのくらい色が濃いほうが好きです、緑によく映えますから」
「白やピンクのも…あるんじゃなかったか」庭木でときどき見かける、と返した舌が、少し重かった気がした。空気が甘く口のなかにまとわりついてくる。
「そうですね。薄い紫のものも、見たことがあります」
「……あれは、日本の花なんだろうか。そういえば」
「原産地はわかりませんが──アメリカにも咲いていますよ」
ここへくると、どうしてかいつも眠くなる。満庭が、人といて眠くなることなどありえないはずなのに、これはカウンセリングの効能なのだろうか、と満庭は奇妙に思いながら──警戒心が、真っ先に眠ってしまう。
「ワシントン──州でなくて首都のほうです──そこに、ひと夏の間滞在していたことがあるんですが、どこもかしこも百日紅の花が満開で……」
手首をひらひらと、花房が揺れるように回しながら、香坐坂は黒い瞳を細めた。
「真夏の色っていうのはわたしにとって、あのピンクなんですよ」
満庭は、ぼうっと黙り込んだまま、音楽のようにその声を聞いていた。数秒後、はっと我にかえって返事をした。
「いや…なんだか、そうやって話を聞いていると、外国がとても近しいものに思えてくる」
「おや、実際それほど遠い世界ではありませんよ。例えば、あなたがこの夏に一週間ばかりの休みと──お持ちでなければパスポートをとれば、アメリカでもヨーロッパでも、旅行することができます」
わたしと一緒でよければ、と囁かれた耳から、首の血管へ、体温より少し高いものを注がれたようにじぃんとおだやかな熱を帯びる。肩のこわばりが溶けていく。
「恥ずかしながら、旅行というものには縁遠くてな。どこを見ればいいのか、何をしたらいいのか、検討もつかない」
「どこ──そうですね──いえ、わたしもそれほど観光をするわけではないのです」
話しながら、ソファの背もたれに手をかけた香坐坂の声が思案げになる。満庭のぼやけた視界には、蛍光灯のまばゆさに白く光る手袋の指先しか映らない。
「そうだ。ワシントンD.Cなら、アーリントン国立墓地へ行きましょう。無名戦士の墓地で、衛兵交代式が行われるのですけど──わたしはあれが好きです」
香坐坂が話しているのはわかっているのに、上手に返事ができない。ああ、と震わせようとした喉の奥で、声が眠り込んでいる。
「あそこは、とても静かです。けれど、毎日のように、過去の戦争を生き抜いた老兵士と、今も中東で死んでいく若い兵士の葬儀が行われているのです。そして私たち観光客に、それを見よ、アメリカのために死んでいった人間の墓を見よ、とガイドブックは勧める。奇妙な感じがしませんか?」
ひどくねむい。ねむいというより、体が、肉を覆う皮膚が、どろりと重たくなっていく。
眼球の表面が乾いて、瞼がはりつくような、目を開けようとするとひどく不快な感覚がはしるような。花のような匂いだけが脳を浸すようにあざやかだ。
「今現在も戦争をしている国のひとびとがもつ愛国心というのは、とても興味深い──戦争とは武力行使であり、暴力であり、殺人です。しかしそれを愛国者たちは賛美する。時にそれは愛する人の死だというのに、彼らにとっては、我々には想像もつかないほどの純粋な熱狂となりうるのです。その火は美しい。それを見たいとはおもいませんか?」
ねむい。瞼がもちあがらない。頭にかかった甘い靄に、外からの音も、内からの思考も阻まれているようだった。
「彼らは祖国を、祖国によってなされる正義というものを愛するあまり、自身を誇りに思う気持ちと、愛国心の区別がつかないのです。正義とはそれほどに甘い毒。
──あなたはどうですか?」
閉じた瞼の裏に、ピンクと緑の光がパチパチと散る。無音の瞬きが幻を生む。
顔の上に、淡いピンクの花が降ってくる。甘い、甘い色が……。
音にならない、はかないものが擦れる気配がする。窓辺の、蜜蜂殺しの名をもつ花が揺れている。自分のすぐそばで。そんな光景だけが、なぜか落雷の一瞬のように鮮明に浮かび、無音のなかに消えた。
花の闇のなかから、囁き声が聴こえた。
「この花はね、それはそれはたくさん蜜をもっているのですよ──蜂が溺れ死ぬほど」
満庭の意識は、いつもこの花闇で途切れる。
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