花下闇(香満香)

攻め・香坐坂 白夏(かぐらざか・きよか)精神科医、プロファイラー。犯罪被害者・捜査関係者のカウンセリングも行っている。…というのは表の顔で?

受け・満庭 冬朱(みつるば・とあけ)※よそのこ 警察官。香坐坂のカウンセリングを受けていたが……





 花に埋もれて眠るのは、どんな爰地がするのだろう。




「百合に埋もれて眠ると、アルカロイド毒の作用で死ぬというのは、いつからある都市伝説なのでしょうね」

 花瓶の水を流しながら、香坐坂はそう云った。百合の茎を切っていた満庭は、花鋏を持つ手を止めずに「そんな話があるのか」と返した。

「ええ。先日、若い患者から訊かれました。あの噂はほんとうですか、先生、わたしは美しく死にたい──と。

 笑わせるじゃありませんか。花に埋もれて死んだとて、花になれるわけではないのに」

 聖母像のような横顔のままで、さらりと毒を吐く。満庭は表情を変えずに「本人がそれで満足するならいいんじゃないか。自殺そのものに関しては、お前の職業上推奨してはいけないと思うが」と、白い百合の首を捧げもち、ぱちん、と茎を斜めに切り落としていく。

「これを訊いてきたのは、今年に入って四人めなのですよね。その程度で死ねるわけがないでしょう。ヘリオガバルスのように、薔薇の花びらで窒息死させる方がまだ信憑性があるというものです」

「──切り終わったが、短いものはどうしたらいい」

「ああ、どうしましょうか──いいです、捨ててしまってください」

「了解した」

 満庭は答え、まだ瑞々しい蕾を屑籠にまとめて押し込んだ。がたり、と蓋の閉まる音が響く。

「あなたなら、短い茎にあわせた小さな花瓶を使えばよいと云うかも─と思ったのですが」

 薄く微笑む香坐坂が、アイランド・キッチンに手を置いて、満庭の顔を覗き込む。

「そうだな。勿体ないというのとも少し違うが、活ける方法があるのなら処分するよりは、という感覚はある。だが、飾るのはお前だ。お前が要らないと云うのなら、俺が意見を云う立場ではない」

「おやおや。持ってきてくださったのはあなたなのに」

 満庭は黙って、花鋏を洗い、布巾で丁寧に水滴を拭った。

 香坐坂が、大輪の百合を活けた花瓶を抱くように持ちあげた。そのまま、満庭の隣を歩いて居間の方へ向かう。

 遅い夏の日がようやく暮れそうな頃合いで、開けたままのカーテンの間から、うつりかわる最中の空の滲みが、金の髪の輪郭を淡い紫に縁取っている。

「では、迎え火といきましょうか──」



 ベランダというよりはバルコニーと呼びたい風情の露台、蛍の光に似た仄かさで、西陽の名残りがちらついている。

「お恥ずかしい話、お盆というものは初めてなのですよね。そういった旧い儀式は殆んどやらない家だったもので──」

 そう云いながら香坐坂はかがみ込み、地面に置いた銀の器の中の蝋燭キャンドルに、マッチで火を灯した。

「形式がないというのはやっぱりいけませんね。美しいほうがよいかと思って、とっておきを燃やすのですけれど」

 ライラックの花房を思わせる、透かしの入った彫刻のようなみごとなアート・キャンドルは、ずっしりと重たい。アメジスト・ドームのような、燃える宝石めいた表面を、半透明の蝋が溶け落ちていくのを、満庭の黒い瞳の面が反射していた。

「──結局、こういうことはやる側の気持ちの問題だからな。形式などそこまで気にしなくともいいんじゃないか」

 腕を組み、彼にしてはやわらかな口調でそう述べたが、瞳の黒は深く深く、膝をついて蝋燭を見つめている香坐坂のうなじに突き立っている。

 その首が動き、金の後れ毛が白い肌の上できらめいた。

「兄と義姉あねが来ていると思いますか?」

 薄っすらと笑んだまま、香坐坂は満庭の顔を見上げていた。凍りついたような無表情で、満庭は返した。

「お前が思うのなら」

 満庭冬朱の父親が、香坐坂白夏の兄とその妻となるはずだった女性を死に追いやったのは、もう三十年近くも前になるのだった。

 そのことを知っていながら、素性も本性も隠して満庭に近づいた香坐坂は、しかし決して復讐者などではなかった。

 彼は、精神科医の肩書を持ちながら、人心を石ころのように容易く掌握し、削ったり砕いたり、思うがままに操る怪物なのであった。

 この男が、その魔性で以って面白半分に追いつめて壊した人間の魂の総重量は、満庭の背負う父とその罪の重さの何十倍になるのだろう。

 その魂が今、この美しい火に導かれてここにやってくるとしたら、彼はどれほどの罪を背負うこととなるのだろう。

 満庭によって化けの皮を剥ぎとられるまで、殊勝な恋人のふりをしていた香坐坂のことを、満庭はまったく理解できないし、微笑んで病んだ人をもてあそび、壊す彼のことを、腹の底まで腐りきった生まれながらの犯罪者だと思っている。

 しかし、それでも彼といることを選んだ理由がある。

 しばらく、その黒い瞳に蜃気楼のような炎を映していた香坐坂は、不意に満庭のほうを見た。既に火や幽霊から興味は失せたようで、薄く笑んだ唇のかたちは、愉しいことをしましょうよ、と読めた。

 満庭が、手であおいでそっと迎え火を消すと、にっこりと笑った香坐坂は、蝋燭の傍らに置いていた百合の花瓶を大切そうに抱えあげた。そのまま、しれっと室内に戻っていく。表面が溶けて崩れたキャンドルをそのままに、白百合を抱いた香坐坂の行き先は、寝室だった。

 黙って後をついていった満庭は、扉のない寝室の入り口にもたれて、「恋人」の姿を鋭い視線で追った。

 本性を隠さなくなった香坐坂の横顔は、相変わらず慈悲ピエタのような輪郭をたたえているくせに、金色の睫毛にふちどられた瞳はまるで泥濘みの濁りを凝らせているのだった。

 そのぬるい、死骸の胎内のような黒に──指をとられて沈むことを、共犯関係だと名付けたのはいつの頃からか。

 香坐坂は、花瓶を枕元のサイドテーブルに置くと、徐ろにベッドに腰をおろした。

ねむるには早いとは思いませんか」

「だが、共寝にはまずいんじゃないか」

「先祖が来ているから?」

 シーツがさらさらと砂のこぼれるような音を立てる。そのやわらかな畝や溝に白い指を滑らせ、香坐坂は笑う。

「見せてやりましょうよ」

 白い手が伸び、枕元の白百合をぐしゃり、と掴んだ。硬くて、みずみずしい蕾の折れる音がした。

 花瓶が倒れ、白いテーブルから白いラグへ水が流れ落ちる。折れた茎と葉から緑が飛び散り、握り潰された花の中から蕊が露出し、べたりと毛足に黄色い花粉を擦りつけた。

 あたり一面に、百合の香が満ちる。

小さな死プティモールというのは、あまりに俗な比喩であると、そうは思いませんか、ねえ。冬朱」

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