ストロベリー・ムーン・フォーエバー (香+)

↓この話に出てくるCP(香満香)が出逢う前日譚です。

https://kakuyomu.jp/works/16816452220786401591/episodes/16816700427649578520


香坐坂が、満庭の同僚から彼を紹介される話であり、満庭本人は出てきません。





「今夜は月がきれいですね」

 盃に、月が浮かんでいる。

 ベランダに椅子を二脚と、小さなテーブルを出して、漆器ジャパンに注がれた白いワインを、夜風がちろりとなめる。月がさざなみだった。

「たまにはいいでしょう」器だって別のお酒を味見してみたいはず、と、厚いガラスのボトルを持った香坐坂かぐらざかは微笑した。

「本当、急にすみません、まともなおみやげもないうえにこんなにしてもらっちゃって」

 恐縮の言葉と共に、蜂蜜色の髪の男──蓮台れんだいが、室内から身体を少し乗り出す。「そのサンダル、よかったら使ってください」香坐坂が足元を指せば、蓮台は頭を下げながら大人しくそれをつっかけて、ベランダへ出てきた。

「夕食をご一緒って、まさか香坐坂さんがぜんぶ作ってくださるとは思わなくて、ほんと……」

「いえ、グレープフルーツ、ありがとうございます。今日はちょっと手をかける気になれました」

 そう云いながら香坐坂がそっと目をやった卓の上には、生ハムとグレープフルーツをマリネにしたものが、萩の図案が描かれた皿に盛りつけられている。

『グレープフルーツはお好きですか?』

 蓮台から、そんな内容のメールが来たのは、クリニックの午後の診療が始まる少し前だった。香坐坂は少し考えて、こう返事をした。

『好きですよ。味も、香りも』

 ややあって、返事が届いた。

『たくさん親戚からもらったもので。今日、お仕事終わった後にクリニックに持っていきましょうか』

 香坐坂は微笑みながら、そのメールを読んだ。それから『ありがとうございます。よかったら、夕食を一緒にどうですか?』

 仕事と、それから彼自身のカウンセリングのために関わったことのある蓮台紫暮しぐれという人物は、香坐坂からすれば御しやすい、手玉に取りやすい男だった。

 単なる患者の一人というには近しく、友人というには少しぎこちない間柄として、やり取りするメールの文面からは、蓮台のこちら側に対する好意的な感情が見え隠れする。

 勿論、彼の警察官という職業柄、鋭く人の本質を突くことも、こちらの思惑を見抜かれかねないことも、無いわけでない。しかし、はなから香坐坂を好意的な目で見てしまっている時点で勝敗は決まっているのだった。

 ──もっとも、そう仕向けたのも香坐坂自身ではあるのだが。

 風が吹いた。少しつめたい、月の温度の夜風だった。その月と、同じ色の香坐坂の前髪が揺れる。

 揺れるピアスと、金の後れ毛。見惚れてぼうっとしていたらしい蓮台は、はっと我に返って世間話を始めた。

「…妻がね、こういう果物を食べると口が痒くなるんですよ」

「ああ、アレルギーなんですね」

「そうそう。だからどうせ食べないし、そもそも今日明日と留守なんです。ほら、アイドルの追っかけで」

「メールで言ってましたね、コンサートは二日間行かれるんですか?」

「いや、今日の夜のチケットしか当たってませんよ。明日は一緒に行く友達と、神戸観光して戻るそうです」香坐坂さんにもおみやげ買わせますね、と蓮台は手でマルを作った。

「そうだ、栓抜きを持ってきますね。…これ、甘口の白ワインなんですけど」

「あ、俺白好きなんです。いや、悪いな、ほんと。次はもっといいものを差し上げますね」

「いえいえ。私も、お客さまが来ないと、高いお酒なんて開けませんから」

「えー、光栄だなぁ」

「頂き物ですが……エゴン・ミュラーのシャルツホーフです」

「へええ。なんだかめちゃくちゃ高そうだなぁ。お酒、詳しいんですか?」

「それほどでも、受け売り程度です。…蓮台さんは、あまり飲まれないんですか?」

「いや、安酒ばかりなんですよね、お恥ずかしい話」あっけらかんと笑う。「この見た目でハイボール飲むなって言われたことありますけど。ワインとか飲んでてくれって」

「おやおや、とんだレイシストもいたものですねえ」わたしも発泡酒とか、ストゼロのみますよ、と言ってみると「うわ」と軽く身を引かれた。オーバーな仕草に「そんなに引かないで」と眉を下げると、「この流れで恐縮ですが、俺にその見た目でハイボール飲むなって言ったやつの気持ちがわかりました」

「おや。あなたも外見で人を判断しますか?」

「……いやあ、だって、あなたは綺麗だもの」

 言い訳がましくなく、さらりとそんなことを云う。褒めることを主軸とした発言にいつの間にか切り替わっていて、おやおや、と認識を改める。遊び慣れてるわけではないが、人を誑し込む天性の手管を持っている。それは率直さという武器だ。

 それは香坐坂にとって、小さなフルーツ・ナイフ程度に過ぎないが。

「俺らみたいなバカって、香坐坂さんみたいに綺麗な人は、綺麗なものを飲んでると思いたいもんなんですよ」

「はは。ストロングゼロの製造元に謝ったほうがいいですよ、蓮台さん」

 香坐坂は蓮台の髪や、華やかで彫りの深い眼元をちらりと見る。苺色の瞳と長い睫毛、鼻筋から口元までの派手な整い方は、洋画のポスターの色男そのものだ。

「こういう話になってしまいましたし、お聞きしてもよいと思うのですが、蓮台さんはご両親のどちらかが…?」

「あ、母がデンマーク出身なんですよ」蓮台は癖のある金髪をかきあげて相好を崩した。「香坐坂さんはスウェーデンって、前に仰ってましたよね」

「あれ、言いましたっけ」

 とぼけてみせれば、少し落ち着きなく「あれ、どこかで読んだのかな。クリニックの紹介とかで……」と蓮台は首に手を当てた。その頸筋や耳元が赤くなっている。本当は自分から言ったことを香坐坂は憶えていたが、黙って笑っていた。…こうして焦るということは、目の前の男はきっと、自分について調べたり、人から話を聞きだしたりしているのだ。それは香坐坂に明らかな興味があることを示している。

 これ以上ここで意地悪をするつもりもないので、会話を続けてやる。

「そうですよ。わたしも母がね、スウェーデン人で。生まれ育ちは日本こちらですけれど」

「俺も一緒ですよ。デンマーク語とかわからないし、英語も微妙で……あ、子どもの頃、少しだけハワイに住んでたんですけど」

「おや、それはまた、なぜ」

 流し目をくれてやるとちらりと視線があったが、どぎまぎした様子で逸らされた。うぶな子供じゃあるまいし、とわざと深追いしてやると、話を続けながら存外上手にかわす。

「俺、父親が坊主なんですよね。ハワイって日系が多いので、仏教を信仰してる人がわりといるんですよ。だから寺が必要で、僧侶は日本から派遣されるんです、お前若いから行けって感じで」

「へえ。でも、云われてみればそうですね。なら、英語はおできになるでしょうに」

「いやあ、小学生の頃なんで。キレーさっぱり忘れましたよ……」

 あ、手伝います、と自然に部屋の中、そしてキッチンにまで入ってくる。こういうところだ、と──面白く思って、身を引き締める。さらりと距離を詰めて、さらに入り込んでくるのが、この男も上手なのだ。

 もっともそれは、香坐坂のような計算ずくのものでなく、巧まずして──のものだろうが。

 手伝うという言葉に甘えて、あとで開けていただけますか、と栓抜きを渡しながら、香坐坂は会話を続けた。

「お坊さんとデンマークの方がどうやって」

「そこは気になりますよね。なんと、親父、実は英語教師だったんです。坊主を継ぐ前はね。で、大学時代に英語の勉強を兼ねて、少しヨーロッパを周遊したことがあって。そのとき、イギリスで、お互い旅行中の父母が出会ったと」

「おやまあ。ドラマチックな」

「今はもうフツーのおっさんとおばさんの夫婦って感じですけどね」

「みな、平穏に歳をとればそうなるものですよ。素敵じゃありませんか」

 ベランダに戻り、斜めに、隣り合うわけでも向かい合うわけでもなく腰かける。──月が見える角度だ。香坐坂は品よく座してやわく首を傾ける。ワインのコルクに栓抜きを突き立てる蓮台に礼を言って、彼の顔はあえて見ずにいれば、頸に視線がじっとねばりつくのがわかる。

 香坐坂を、友人となる男性として見ようとする男は、たいてい、香坐坂の女性的な物言いや上品な──いってみれば、澄ました態度に戸惑って、居心地が悪そうにする。そして、こんななよなよした男とは友人なんかになれない、などと思っているのが丸わかりの態度で去ろうとする。それならそれで、やりようは幾らでもあるのだが。

 この戸惑いを、まるで女との駆け引きのように心地の良いものとして愉しむ眼をしている男こそ、捕らえやすい。

 ワインを注ぎながら、注意深く蓮台の両眼を、逸らされないくらいにさりげなく見つめる。

「……最近はどうですか、お仕事のほうは」

「そりゃあ、毎日へこむことばっかりですよ。…この間お世話になった件よりはマシだけど」

 息をつきながら、蓮台はワインをあおった。

「最近、駅前で交番の警察官が刺されたり、反社の人たちが仲間割れで山で殺されたってニュースが……特に、凄惨で怖い事件が多いでしょう。また、カウンセリングが必要になるようなことになったら、あなたが心配ですよ。蓮台さん」

「うん、ありがとう。でも仕事だからね。やらないと」

 それに、俺たちがやらなくて、誰がやるの。

 蓮台の、金の睫毛が、まっすぐ夜を見つめる苺色の瞳を縁取っていた。甘ったるく誤解されがちな声にも目にも、躊躇いのないしんとした気配があった。

 れてないひとだ、と含み笑った。警察官という職務上、どうしたってきれいごとや正義感だけでは通用しない場面にぶち当たることだって多いだろうけれど、彼はつよいから、擦れないのだ。

 だけど、ダイヤモンドは劈開する。

「──あ、そうだ、香坐坂さん」

 ふっと、蓮台の目元が緩んで香坐坂を見やる。

「実は、カウンセリングしていただきたい人がいて」

「おや。お知り合いですか?」

「俺の同僚なんですよ」

 蓮台は、ポケットから取り出したスマホの表面に電話帳の名前を表示する。──

「どう読まれるのですか」

 香坐坂はその名を本当は知っていたが──なにも知らない顔をして訊ねる。

「みつるば、とあけって読むんです。俺の同期で──」少し口ごもり、蓮台は少し言いにくそうに続けた。「最近特に忙しいのもあるんですけど、コイツは仕事のしすぎだと思うんです。なんというか──精神的に余裕がないっていうか、普段と違うというか」頭を下げて「今度、署にも許可とって連れていくので、香坐坂さんにカウンセリングというか、きちんと診ていただきたくて」

 蓮台の指が画面をスワイプし、『満庭冬朱』の写真が現れる。

 誰かの写真を撮ったときに、たまたま写り込んでしまったのだというような硬い表情と、少し斜めになった姿勢。ざんぎりにされた黒髪と、その下の眼光の鋭さはカメラの方を見ていないのに、背筋がひやりとするような求心力がある。

 これだ、と香坐坂は、胸中から湧き出てきた悦びを噛みしめる。

 まさかこんな風にめぐりあうとは思いもしなかったが。これだから人と出逢う職業はやめられないのだ、と笑みを隠すためにワインを飲む。

 

 その経歴を密かに追ってきた。復讐などのためではない。面白そうだと思ったから──やっとこの手のなかへ落ちてきそうなのだ。月光のかけらを閉じ込めるように、白い手のひらを優しく、しっかりと握り込む。

 この男を、ものにしてみたい。

 自分に視線を奪われそうもない、この黒い瞳を、絡め取ってみたい。

「──わかりました、蓮台さん」

「あ、受けてくれるんですか、うわー、ありがとうございます! 詳しいことはまた─…」

 ほっとした笑顔で連絡先を探そうとした蓮台の手を、そっと押さえる。すぐに振りほどけるほどの弱さで。

「あとで、詳しいことは教えてくださいね」

 蓮台は手を振りほどかない。黙って、香坐坂の黒い瞳にとらわれたように見つめている。瞳孔が開いて、ストロベリー・ムーンのような虹彩の色が、その暗い孔に落ち込んでいきそうな、何も見えなくなりそうな眼。

 恋は盲目というけれど、恋する人はただ自ら望んで目を閉じているだけだ、と香坐坂は思う。目を開ければ解ける魔法に、かかっていたいと望む心の弱さこそが、つまりは恋なのだ。

「……月がきれいですね」


 



Living is easy with eyes closed / Strawberry fields forever

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