★果物の皮をむく (波真+)

※※未成年が性的に搾取される、犯罪・性描写があります。

※※既存CPの攻めが過去、他人に抱かれるという内容の描写があります。




 風呂上がりに抱きつかれ、頸に噛みつかれながら髪を拭いていると、不意に耳元で「あ、こいつ捕まったんだ」と恋人の間伸びした声がした。

「なに。だれ」

 その声に、真紵まおがつけっぱなしだったテレビの画面を見ると、お決まりのフードを被った被疑者の男が警察車両の中で俯いていた。どうやら、自身が指導していたテコンドー教室の男子生徒に猥褻な行為をしたとして逮捕されたらしい。淡々と報道される内容に、「ショタコンってやーね」とふざけた調子で、気だるく呟いた真紵は、不意に髪を拭く動きを止めた。

「……お前さぁ、そういやテコンドーやってたよね?」

「ん」

 真紵の寝巻きの胸元に手を入れながら波潤はじゅんは頷く。

「お前の実家、XX市だったよね?」

「うん。てか、こいつ恩師」

 真紵に叩かれ、渋々服から抜いた手で、波潤は画面を指差す。

「恩、あんの?」

 茶化すように訊いた真紵は、波潤が滅多にしない不機嫌そうな顔をしているのを見て真顔になる。猥褻な行為、の詳しい内情を、相変わらず淡々とアナウンサーが述べるのを聞きながら、波潤はさらに眉間の皺を深くする。

「服ぬがせたとかさー、写真とったとかさー、そんなんじゃないよ。ぜったいもっとしてるっつーの」

 察しが良く、道徳心には欠ける真紵は、波潤の言葉を聞いて全てを理解した。ああ、なるほどねー、と関心の薄そうな口ぶりで言ったが、ふと波潤の方を振り向いて訊いた。

「なあ、波潤。お前はされたのよ?」

「ぜんぶ」

 真紵は黙り込んで、波潤は一呼吸おいて、繰り返した。

「ぜんぶされたよ」




 十二歳の終わりの季節だった。

 当時の波潤の頭のなかには、今よりももっと言語というものが少なくて、ぼんやりと映像や、匂いや、触感などがふわふわと浮かんでいる小さな水たまりのようだった。手を突っ込めば、おぼろに浮かんでいたイメージを広がる波紋が崩してしまい、うまく言葉にできずに、すべて水滴になって散ってしまうばかりだった。

 それというのも、波潤は、不完全な日本語を少しと、韓国語を用いる母親とのコミュニケーションばかりとっていたためであった。もちろん、家を出れば日本語ばかりの環境だったが、そもそも言葉をうまく話せないのに馴染めるわけがない。結局、波潤は、──母にとっても唯一の話し相手だったために──いつまで経っても言葉の足りない子どもだった。

 母は李昭娟イ・スヨンという名前だったが、波潤の父と日本で結婚して、PTAの名簿などには昭娟しょうえんと記載されていることが多かった。仲の良い人はスヨンさん、と呼んだが、父方の祖父母は頑なに、ショウエンさん、と日本での漢字の読み方で呼んだ。母はそのたびに、スヨンです、と訂正した。

 このエピソードだけでも察せるとおり、さぞ日本で暮らしにくかったろうと思うが、それにしても彼女の気は強かった。波潤が中学生になるまで婚姻関係が継続したのが奇跡といってもよかった。波潤の小学校高学年の記憶は、毎晩、顔をあわせれば怒鳴りあう父母と、それを聞きたくなくていつしか彷徨うようになった夜である。

 サンダルをつっかけて、マンションの前の公園のブランコに腰かけていたのが最初だった。その公園から一歩踏み出して、だんだん遠くへ、昨夜より遠くへ、と歩いていくうち、知っている世界を抜けていた。街角も、交差点も、横断歩道も、誰もいない。

 夜がこんなに長いとは知らなかった。知らない世界がもうひとつあって、そちらと現実を行き来しているような気すらした。

 そのうち、授業中いつも眠りっぱなしの波潤を担任教師が気にかけて、結果、深夜の徘徊が両親にバレて怒られたりもしたのだが──それよりも先に気づいたのは、当時波潤が通っていたテコンドー教室の師範だった。

 佐々木といった彼は、母の昔の知り合いで、日本人だが韓国に留学していたことがあった。波潤の韓国語まじりの拙い日本語を解してくれ、気にかけてくれた。

 夏の夜、いつものように、家に帰りたくなくてテコンドー教室の前でぼうっと街灯を見上げていた波潤に、声をかけてきたのも佐々木だった。

 迎えが来ないのか、と尋ねられ、咄嗟に何も言えなかった。俯いた仕草からなにかを察したのか、佐々木は波潤をもう一度教室に入れると、丁寧に話を聞き出した。

「夜、そんなとこに行くくらいなら、うちに来い」

 目を見て、低い声ではっきりそう言われた。怒鳴ったり泣いたりせず、自分と話してくれる大人は久しぶりだった。

「先生がお母さんと話してやるから。着替えだけとっておいで」

 幼児の娘と妻がいる家庭にお邪魔するという行為に対する考えが、中学一年生の波潤にはまだ希薄だった。だからさしたる遠慮もなく、汚れた道着を持ったまま上がり込んだ。

 佐々木の妻は寛大な女性で、夫がいきなり連れてきた子どもを躊躇いなく迎え入れた。

 残り物で作られたあたたかい夕ご飯のあと、皿に盛られた枇杷がだされた。あまり見たことがない果物をまじまじと観察していると、その率直な視線に佐々木は笑った。「なんだ、枇杷がそんなにめずらしいか?」

 みたことない、と素直に答えれば、佐々木は少し驚いたようだったが、枇杷をひとつ取って、柔らかい皮をむき始めた。

「こうむくんだ」

 佐々木は根気よく、辛抱の苦手な波潤に教え続けた。波潤が、悪戦苦闘しながら傷だらけの手で皮をむく手を、ずっと見つめていた。

 佐々木は、居間に布団を二枚敷いた。寝室ではもう、妻とちいさな娘が眠っていた。

 気になることがあったらなんでも話してくれ、と、自然教室の夜のように、灯りを絞った下で、佐々木は波潤の肩を叩いた。

 波潤は何から話したのか、そもそも何かを相談しようと試みたのか、今はもう思い出せない。

 せんせい、と、呼んだ声は掠れていた。



 静かな夜は、ずっと長かった。

 大きな窓から月光がいちめんを照らしていた。その光を遮るように覆いかぶさった大人の男の身体は大きくて、波潤の全身を隠す。影の中で、月の爪が肌の上を揺れ動いた。

「いい子だ、波潤」

 胸毛までじっとりと汗ばんだ佐々木が、荒い息の狭間でこぼす。ちくちくした不精ひげが波潤の頬を傷つけた。

「これは先生との秘密だぞ」

 何をされているのかよくわからなくて、自分の身体が自分のものでないように、なにか途方に暮れるような感覚が手足に絡みつき、上手に動けなかった。宙ぶらりんのまま、人形のように手足をとられ、擦りつけられたり、体勢を変えさせられたりした。青い青い夜のせいで、海に落ちたような気がした。波が身体をもてあそんで、強い力で揺さぶってくる。昔、大人に教わったことがある。武道のように人間を相手にするものではないのだから、敵わないのなら抵抗しないことだ。力を抜いて、ただ浮かんで、身を委ねろ、と、──あれ、これは誰に教わったのだっけ。

 地獄は、その後からやってきた。


「ほら、息を吐いて、力を抜くんだ。違う、腰を引いちゃだめだ」

 

「がんばれ、がんばれ。いつも、練習ではもっと痛いことを我慢できてるじゃないか」


「大人はみんなこれをしてるんだ。慣れたら痛くない、むしろ気持ちよくて、もっとしてほしくなるぞ」


「泣いたらだめだ。声は我慢しなさい。聞こえるから」


「いい子だ。いい子だよ、波潤」




 佐々木の家の居間には、妻の趣味なのか、西洋画のカレンダーが飾ってあった。夏の夜、悍ましい破瓜の痛みに耐えながら、男の顔を、夜よりも暗い獣の顔を見たくなくて、ずっと見つめていたその絵を、今も覚えている。

 果物の皮ををむく少年、という絵だったと、のちに知った。カラヴァッジョの明暗コントラストのはっきりした筆致で描かれた少年は、胸元を深く開いて、乳色の肌を見せていた。

 佐々木はそのカレンダーに背を向けて、自分の上で息を荒げ、枇杷のむき方を教えたその無骨な手と唇で、波潤の身体を手脚の先から、みな食べてしまった。みな、擦って、舐めて、汚していった。

 今も、手で皮を剥く果物は嫌いだ。気持ちが悪いし、めんどうだから。

 記憶のなかのあの太い親指が、ずるりと残酷に果物の薄皮を破るのがおぞましい。

 手のうちで果肉が搾られ、ぼたぼたと汁が落ちるのが、体液にまみれたあれと重なるのだ。

 ぬるついた苦い肉。

「いい子だ」

 夏の夜のように、べとりと湿った熱い欲。

「いい子だよ、波潤」

 慕っていた。だから受け入れた。全身を余すことなく食べてもらう方法を覚えるまで。やがて、愛してくれる大人なんて幻想を、両親の離婚が打ち砕いて、目に見えないものを追い求めるのをやめる日まで。

 アイスを舐めているとき、教えられた舌づかいをしていると気がついて、半分も残っているそれを捨てたことがある。道端にべしゃりと落ちたバニラの黄ばんだ白が目を射って、無性にいらいらした。

 だから今もバニラは嫌いだ。

 殺したいほど気持ちが悪くなるとわかっているのに、記憶のなかのそれは甘くて、無性に欲しくなるから、嫌いなのだ。




「ねえ、まおくん」

 髪を拭き終わり、タオルを洗濯機へ放り込もうと立ちあがろうとした真紵の裾を、波潤が強引につかんでひきとめる。「なによ」と、真紵が逆らわずにもう一度床に座れば、背後からがばりと抱き込まれた。

「したい」

「…俺、今風呂からでたばっかなんだけど」

「したい」

 頸動脈を舌がなぞり、耳の下を軽く吸われる。

 真紵はその手首を掴み、今は筋肉も骨も太くなった波潤の腕の血管の隆起をなぞる。

「なに。忘れさせてほしいの」

 波潤の返事はなかったが、真紵の腰に腕が回された。真紵の抵抗などものともしないほど育ったくせ、それでもこんな風に顔を見せずに、思考を麻痺させる快楽に逃げようとする短絡を、いちいち真紵は咎めない。手を離して、ゆっくりと波潤の身体にもたれかかった。好きにしていい、のつもりで、実際、すぐに寝巻きのなかに掌が滑り込んで、袖から腕を抜き取られた。服を脱がされながら、着せ替え人形になったように関節から力を抜いて、されるがままになった。それが真紵の愛情表現なのだ。




「こんなグリズリーみてーな奴に手ェ出すとか、結構な趣味だね」

「しつれー。俺昔かわいかったんだけど」

 自分で言うかよ、と真紵は自分を抱き込む波潤の耳をゆるくひっぱる。だるそうに指を離すと、自分の髪を手で束ねて指で梳いた。シャワーあびたのに、また汗かいたじゃん、と掠れた声でぼやくと、べろりとこめかみを舐められて、反射で裏拳を叩き込んだ。

「しおあじ」

「これ以上汚すなバカ」

「だって近くにデコがあったからさぁ」

「本能に従いすぎだろ。やっぱグリズリーじゃねーか」

「だーかーら、昔は小さかったし、中二までは声変わりもしてなかったって。……でも、確かに、俺がでっかくなったら手ぇださなくなったわアイツ」

 テコンドーもやめちゃったし、と波潤は唇を尖らせた。真紵はその唇をつまんでひっぱり、まただるそうに手首を振った。骨ばった手首のさらさらとした皮膚の乾きを、波潤は安心して握る。真紵の、自分より少し低い体温と、代謝の悪い身体を波潤は愛している。あまりに熱くて粘ついているものは、あの夏の夜を思い出すから。

 既に日が高くなりかけていた。

 ぐしゃぐしゃのベッドから体を起こして、ぼうっとカーテンの隙間から空を見ている熊の背中に、「…いつものアイスあるけど」冷凍庫に、と、真紵が声をかける。

「やだ」

「そ。じゃあ俺食っちゃうけど、いいね」

「やだ」

「どっちよ」

 真紵は波潤の背中を軽く叩いた。

「こっちおいで、熊」

「…クマじゃないっての」

「くーま。ケダモノ。グリズリー」

 眩そうに目を細めたまま、波潤は振り返った。真紵はその首に腕をかけ、なんとか自分の方に引き倒した。波潤は驚いて、一拍遅れて「わあ」とぼんやりした声をあげた。真紵はだらりとその肩に抱きつき、うなじを撫ぜた。

「イヤな思い出なら、忘れちまえよ」

 さんざん俺とセックスしたり、アイス食ったりしてんだからさ。そう言われて、波潤は茫漠とした思考の海でその内容を噛み砕く。

「うわがきしろってこと」

「お、難しい言葉知ってんじゃん」

 熊のくせに、と、言葉とその皮肉げな微笑とは裏腹に、心底愛しそうな手つきで──わずかに寄った波潤の眉間の皺をなぞった。熊にしては賢くて、人間にしては愚か。乾いた唇だけで、なにか詩を諳んじるように呟いた。

「波潤、お前は本当にばかだねえ。自分の傷にも気づかないくらい」

 傷なんてないよ、俺。

 言おうとした唇に爪を立てられ、それから、言葉と涙のような一滴の血を吸われた。


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