片恋 (波寅真)

CPは前話・前々話参照。




 はじめに言葉ありき。


 この一文を初めてみたとき、クソ食らえと思った。

 言葉だの、かったるいものに頼っているから、神さまのせいで言語がばらばらになったくらいで、こんなにめんどうくさい世界になるのだ。



 みね波潤はじゅんは、日本人の父親と、韓国人の母親の間に生まれた。

 幼いころから、母は波潤に、自分を「オンマ」と呼ばせたし、父と口論になるたびに臆することなく韓国語でまくしたてた。危機感を覚えた父と祖父母は、彼によく日本語で話しかけたが、やはり幼児にとって最もふれあう機会が多いのは母親である。そのためか、波潤は小学校高学年になるまで、いまいち国語の成績がよろしくなかった。日本語も韓国語も、母語として十分に習得できていない状態である、と三者面談で教師が言ったのをなんとなく覚えている。

 結局その後、母は父と離婚して故郷へ帰っていった。それでも波潤の少しぼやけた日本語能力が改善するわけでもなかった。一応、韓国語よりは流暢に話せるという点で日本語を母語としてはいるが、適切な単語も文章も咄嗟に出てこない。セミリンガルだとかダブルリミテッドだとか、まあいろいろと言われたが、それこそ、話すのも危ういのにそんな単語の小難しい定義なんてわからない。

 だいたい、母語という言葉からして気に食わない。母のない子と言われたようで。



「ねえ、そーおもわない? まおくん」

 波潤の腕のなかで「クソどーでもいい」とかすれた声が返す。

「な。どーでもいいよな、言語のシュートクとか、セミリンガル? とか。俺困ってねーし」

「…俺ァ、てめぇの頭ゆるゆるなしゃべり方に曲がりなりにも理由があったことに得心いきましたがね」

 真紵まおは肺を空っぽにするようなため息をついた。腕のなかの体がすこししぼんだようで、波潤は「トクシン?」と意味のわからない単語を繰り返しながら、ぐっと腕に力を込めてみる。

「ってぇわ」

 ばっと腕を振りはらう勢いで弾かれ、波潤はにっこりした。

 昼下がりと呼べる時間帯。特別教室棟の屋上で、二人はコンクリートに座り込んでいる。正確には、ここでぼーっとするのが好きな波潤が、真紵を強引に連れてきて抱き込んでいるのである。

 古びた校舎の屋上だけあってどこもかしこも薄汚れていて、青春ドラマのような開放感があるわけではないが、地べたにいるより気分はいい。…と、波潤は思っている。しかも、腕のなかに伊良草いらくさ真紵がいるとなれば、なおさらだ。

 波潤は、伊良草真紵の顔が大好きだ。もちろんスタイルも。自分と同じくらいの背丈だと思うけど、長くて白くて、その手脚が暴力を目的に振るわれるとき、防御以外の意味でも目を離せなくなる。

 こちらを睨む青い目。色に意味なんてないのに(波潤は赤いバラと白いバラを同じだと思う)、その中央の黒い孔に吸い込まれていく水のような虹彩、その青だけは何度みても新鮮に驚く。青ってこんな色なんだ、と。

 金色の髪。どうしてこんなに変わった色なんだろう。金色なのに金色じゃない。光があたると白、砂の色、金属のような灰色、暗い影のところは褐色。むかし、理科の実験で、砂糖を溶かして金茶の細い糸にしたことを思い出す。くわえたら、気持ち悪いと顎に一発いれられ、一束噛みちぎってしまった。

 真紵もかなり痛そうだったが、髪をくわえたまま顎を押さえる波潤をみて中指を立てていた。

 波潤は、伊良草真紵の性格が大好きだ。一発殴れば三発は確実に殴り返してこようとする。キスをすれば噛みついてくる。組み伏せれば、隙をみて膝を腹に入れてくる。余計な言葉でどうこうしようとしない──こちらが選んだ手段でくれる。


 

 きし、という錆びついた音が、二人の会話を中断させた。

 この屋上は、特別教室棟の最上階にある備品倉庫から、さらにハシゴを登ってくる必要がある。古びたハシゴが軋む音が、誰か来るという合図になる。

 はたして、ペントハウスの扉が開くと、波潤の従弟である寅郎とらおがひょっこり顔を出した。ピンクに染めた髪が吹く風になぶられ、乱れる。

「じゅん兄、まーたそれで遊んでんの?」

「そーだよ。ね、まおくん」

 寅郎はゆっくりと顎を下げて、じいっと真紵をねめつけた。少女のように大きな瞳なのに、まるで獣を射るような目つきをする。

「よく飽きないね、そんな壊れかけのヤツ」

「うん。まおくんは俺のだもん」

 抜け出ようともがいていた真紵をはなすまいと、波潤が引っ張っていたところで、突然、彼が力を抜いたものだから、胸元にとすんと真紵の頭がぶつかる。おや、と横顔を覗き込もうとしたら、さらにもたれかかるように真紵は頭を波潤の鎖骨にこすりつけた。

「……Yours」

 確かにそう言ったように聞こえたのだけれど。

 波潤がハテナマークをたくさん浮かべている間に、みるみる寅郎の顔色が白くなった。

「……毛ほども思ってないクセによく言う、この売女が」

「なぁに? なんか悪口言ったの」

 腕のなかの真紵に問いかけると、彼はにやにやと笑ったまま「俺のことを『自分のモン』って言ったのはお前の兄ちゃんですけど?」

「うるさいよ、おもちゃ風情が。黙ってな」

「お、辞世の句?」

 中指を立てようとした真紵の手をやんわりと押さえて問う。

「まーおくん。なんて言ったの」

「……ユアーズ、ですよ。お前のモン、って言ったの」

「へえ。そうなんだぁ」自覚あったんだ、と言うと、一瞬真紵の笑みが消え「いやマジで思ってるわけないだろ」とチョップされた。

 鋭い舌打ちが響いた。寅郎だった。

「ふざけんな、それ、二葉亭四迷の訳したヤツだろ。お前、いい加減にしろよ。お前は所詮、壊れたら使い捨てるおもちゃなんだからな」

 寅郎はこれほど苦い声をだす男だったろうか。少しの苦味ならよいけれど、ここまで焦がされてしまっては顔を顰めてしまう。

「そこらへんの処遇はお兄ちゃんに訊いてくれないと。俺はいちばんお気に入りの『おもちゃ』らしいんでね」

 上機嫌な真紵の声色に、寅郎の声が爆発した。白かった顔がサッと赤くなり、とがった声が飛び出す。

「俺のほうが──俺のほうがずっと思ってる! 口先だけのお前より!」

「それなら今すぐそこから飛び降りるなりなんなりしてみな、ボウヤ。コイツのためにってンなら──」

「二人とも。黙んなよ」

 俺、うるさいの嫌いなの。

 低く言うと、二人とも口を閉じた。その表情は対照的だったが。

 寅郎は今やその可愛らしい顔を蒼ざめさせ、乱れた前髪の隙間から大きな瞳ばかりが、暗がりにぎらつく火みたいに、ひたと波潤たちの──真紵のほうを睨んでいる。

 真紵は──背後から抱き込む波潤からは見えなかったが──笑っていた。寅郎よりもさらに暗い暗い、沼の底から微笑みかける死人のように冷ややかに、皮肉っぽく、かたちのよい唇をゆがめて笑っていた。




I forgot everything, I drew her to me, her hand yielded unresistingly, her whole body followed her hand, the shawl fell from her shoulders, and her head lay softly on my breast, lay under my burning lips…


“Yours”… she murmured, 

hardly above a breath.


 ///


私は何も彼も忘れて了つて、握つてゐた手を引寄せると、手は素直に引寄せられる、それにれて身躰からだも寄添ふ、シヨールは肩を滑落すべりおちて、首はそつと私の胸元へ、えるばかりに熱くなつた唇の先へ來る…


「死んでも可いわ…」とアーシヤは云つたが、聞取れるか聞取れぬ程の小聲であつた。


 “片恋” ──ツルゲーネフ著 C.ガーネット/二葉亭四迷訳

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