いらくさ姫 (波寅真)
CPは前話参照。
その従弟の心情です。
ジンマシンって漢字でこう書くんだ、という、少しだけ語尾の間伸びした声が聞こえた。
「なにそれ、じゅん兄」
「んー、叔父さんの漢方薬? たぶん。ジンマシンとかに効くんだって」
ぴら、と差し出された銀の袋に、小さく書かれた蕁麻疹という文字を見て、寅郎はぱっちりとした目を細めた。「人生で絶対今後使わなそうな漢字。なんでこんな漢字がたくさん生き残ってんだろうね」
「まあ、俺も名前以外で潤いってほぼ書かないしなあ」
呟きながら、波潤は袋をゴミ箱に捨てる。そしてまたしゃがんで戸棚を漁りだし、チキンラーメンの袋を見つけて小鍋を準備する。
上半身裸のまま、小鍋で湯を沸かそうとする従兄の背中。淡く蛍光灯に照らされた筋肉の隆起を眺めながら、ここに爪痕をつけるのはどんな気分なのだろうとふと考える。寅郎はセックスをするとき、いつも爪を短く切っている。それに相手の体を掴んだりしない。
背後から強めに抱きついた。技をかけるような勢いに、厚い背中が少し前に倒れて、起き上がりこぼしのように戻って……隙をつかれて、瞬間的に床に組み伏せられる。
「痛たたた、床ぁ!」
「とら、すーぐ油断する」
固定されていた手足を解放され、息を吐いた寅郎はごろんと床に寝転がる。目の前には片膝をついた波潤の腿があって、そこにも勿論爪痕はないが、キスマークと痣はある。紫を帯びたその色合いをじっと見ていると、ぺしりと額を叩かれた。
「ラーメン食う?」
「食う」
「じゃあ次に作んな」
作ってくれないのかよ、とばたばた手足を動かすと、眠そうな目でとろんと笑って、大きな手で寅郎の生え際をぐしゃぐしゃと撫でた。
その掌の温度を、猫のように満喫していると、ふと彼に伝えたかったことを思い出した。
「そーいやじゅん兄、今日ね、
「えー、またすぐ退学したりしないよな」
「んー、大丈夫だとおもう。けっこう骨ありそうだったし。明日連れてくね」
それが、異様にきれーな顔してる奴なんだ、と寅郎は笑った。
それがおおよそ半年前だ。
オーバーサイズのクリーム色のニットセーターの袖を伸ばして、指先まで隠す。秋も深くなって、そろそろ冬が見えてくる頃だ。
生まれたときに、寅郎という男らしい名前をもらったけれど、結果として寅郎は可愛らしい容姿に成長した。服装も声音も、ジャニーズ系の涙袋と二重幅のしっかりした大きな瞳にぴったりのものを寅郎自身がチョイスして、仕上がったのは立派な美少年だ。
テコンドーで鍛えられた筋肉と、喧嘩で擦れた拳は萌え袖ニットで隠して、無骨なアザはマシュマロみたいな大きなガーゼで地雷系を気取って、できるだけ爪を隠す。そうでないと罠にかからないのだ──獲物が。
春の狩りを思い出す。
廊下を、イヤホンをして歩いていたらすれ違いざまに髪を派手な色に染めた生徒とぶつかった。当然のように喧嘩をふっかけてきた相手のことは、高校入学早々飽きるほど噂で聞いていた。三年生の暴力ジャンキー、最悪目があっただけでも喧嘩を売られる──その噂は正しかった。
ピアスに彩られた彫刻的な美しい顔と、あざがよく映える白い肌をしたその生け贄は、いつもの寅郎の罠にかかって、上等な貢ぎものになった。
波潤はそれは大層、真紵を気に入った。その美しい容姿もさることながら、一発殴れば三発殴り返し、どれだけ辱めて蹂躙しても牙を剥くことをやめないその棘が、波潤を魅了してやまないのだろう。
最初は、寅郎もその「おもちゃ」を気に入っていた。ハリネズミみたいな不良青年、栗のイガを転がして遊ぶようにその針を楽しんでいたつもりだった。チーターのように瞬発力に長けながら、どうやら身体的な事情で持久力に──幾分極端に──欠けるらしい彼は、存外しぶとく長保ちしている。だからこそ、どれだけでも傷つけ、傷つけられることができる相手として、波潤と寅郎は伊良草真紵を手離さない。
──寅郎から見ても、昔から波潤は言葉でのコミュニケーションが苦手な部分があった。その違和感を、暴力やセックスを介して他人を肉体で直接感じることで、代用としているらしかった。つまり、薔薇をただ目で見て、言葉でその美しさを論じることは、波潤にとって意味をなさず──棘が指に刺さる瞬間、流れる血、その痛みでしか実感できないものがあるということだ。
昨夜見た波潤の腰に、痣と爪痕があった。自分のつけたものではないが、昼間につけられたところは見ていた(寅郎にも多少、似た傷はある)ので、少しもやつくところはあれど、黙っていた。
漢方薬の袋をつまんでいた波潤の、傷のない背中を、ふと思い出すことがある。どうでもいいことなのに脳裏に焼きつくほど、あの男を欲しがっている自分を自覚する。
あの後、蕁麻をイラクサと読むと知って、少し複雑な気分になった。
波潤が興味を持つものすべてにアンテナを張り巡らせて、一緒に貪るのが寅郎なりの牽制だった。漠然とした見えざる恋仇たちに対する──自分だけが言葉なしで波潤の隣に居られるのだと。
昔から、おとぎ話が好きだった。
幼い寅郎のお気に入りは、昆虫と重機と暴力と、そして姫と王子の出てくるお話だった。集めたトンボの羽をもいで、ミニカーのロードローラーでアリを轢きながら、十二時になったら解けてしまう魔法に心奪われたのだった。
「とら、眠れる森の美女って名前あったっけ?」
「オーロラだよ」
「あれ、美女と野獣の娘は?」
「あっちはベル」
「ふうん。ややこし」
運命を信じているのだ。
いつか王子様が、いつか自分の運命の相手が現れるのだと。自分の複雑な真の姿を見抜いて愛を誓ってくれる相手が。
「ねー、じゅん兄。俺って王子ってより姫ってツラだよね」
「なに、急に自意識かじょーなこと訊いて」
「は? うるさ」
笑って、寅郎は波潤の耳を甘噛みする。
おもちゃのティアラをつけたら、小学校の先生から男の子なのにと笑われた。いらだって、帰りにさなぎを踏み潰したとき、波潤だけが怒りも蔑みもしなかった。初めて人に殴られて骨を折った日、母の口紅を盗んだ寅郎に、返さなくていいと言ったのも波潤だけだった。
キスとそれ以上を求めたときに、黙って唇と、その体をくれたのも。
だから黙して語らなかったのだ。
波潤の価値観がおかしくて、何も思っていない相手やただの友達や実の従兄弟でも、平気でキスもセックスもできるということは理解していた。
だから他のことで埋めようと思ったのだった。テコンドー、喧嘩、流行りのダンスミュージック、ついていけるものはなんでもやった。罠を仕掛けてまで、波潤への贈りものを捕らえ続けたのだってそうだ。
呪いを解くため、イラクサで、十二人の兄王子のためのベストを編めと言われたお姫さまの物語を思い出す。
寅郎だって、この呪いのような恋のためなら、イラクサのベストくらい、いくらでも編む。たとえそれを編み終わるまで決して口をきいてはならないと言われたとしても。
血の繋がった同性の従兄への十年来の初恋なんて、正気で燃えつづけるわけがない。これが呪いでないのなら、生まれついての狂気だ。
もうすぐイラクサのベストが編み終わる。
そうしたら言うつもりだったのだ。
ボニーとクライドになろうよと、世界に楽しく牙を剥こうよと。どこかで滅茶苦茶になって死ぬまで、これから先も人間を稲妻のように傷つけて、その血をなめてキスをしよう、と。
だのに、隣にいる男は誰だ。
その背に爪を立てた男は誰だ。
おまえの心臓を奪っていったのは誰だ。
──愛してる、と言わなかったのは自分だ。
棘だらけのイラクサの束を引き裂きながら、寅郎は裂けた自分の掌を見る。流れる血に、茫然とした自分のうつろな目が映る。
波潤の体に、知らない傷が増えている。
セックスでしかつかない無数の痕。自分の知らないうちに、彼があのお気に入りと情を交わしている証。
背中や腿の引っかき傷は、棘だらけのイラクサのしとねで寝たようだった。
俺だけにしておいて、と、なぜ彼と出逢うまえに言わなかったのだろう。
──言えなかったのだろう。
それが真の呪いだったと、気づいたときには遅いのだ。
子供よりシンジケートをつくろうよ「壁に向かって手をあげなさい」 ──穂村弘
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