色恋沙汰 (波真)

※“I love you silly”, “いらくさ姫”、“片恋”に登場するCPの数年後です。




「わー、まおくんが勉強してるぅ」

 パシャ、というスマホのシャッター音がして、真紵まお緩徐ゆるやかに顔をあげた。

「俺じゃありませんよー」

「えー、じゃあ誰?」

「迷える中高生たち」

 赤ペンを持ちなおしてまたテーブルに向かう。採点のアルバイトは、最初は在宅でできるという利点で始めたものだが、体力を使わずに作業できるという点で病弱な真紵には向いていた。

 時計は朝の四時半ごろを示している。帰宅したばかりの恋人の波潤はじゅんは、iPhoneを操作しながら部屋に入ってきた。

「明日お店の子に見せよーっと」

「は? 何を」

「おべんきょーまおくん」

「見せんな」

 普段は食卓として使っているテーブルの上には、真紵の在籍する通信制大学の教材といっしょに答案が積まれている。それを少し寄せてスペースを作ると、その机面に波潤が腰かけた。椅子あるんだから座れよ、と何度言っても聞かないので、もう言わない。

「……お前さ、なんで俺の写真をそんなに他人に見せたがるわけ?」

 機嫌が良さそうな波潤は、上着や鞄を無造作に床に落としながら「まおくん恰好いいからぁ」と靴下を脱ぎ散らかしだした。「上着はハンガー、靴下は洗濯機ィ」真紵が低い声で咎めると、裸足になった波潤は「足洗ってからぁ」と返し、上着と靴下を放置したまま風呂場へ消えた。真紵は舌打ちをして、靴下を蹴っ飛ばす。ややあって、風呂場から水音が聞こえてきた。波潤は大抵、出勤前にシャワーを浴びていくが、今日は帰宅後にも浴びたくなったらしい。つくづく気分屋な振る舞いに軽くいら立つところまで含めて、日常になっていた。

 しばしの後、短い髪を濡らした波潤が服も着ず(躾けたらパンツだけは穿くようになった)真紵のところまで戻ってきた。冬だというのに、冷凍庫からガリガリ君を取り出しながら話しかけてくる。

「今のお店入ってすぐくらいにさ、キャストのにイロカン疑われて。しかもフタマタ。してねーっつの」

「あ?」

 知らない単語が多すぎて脅しの声が出た。波潤はいわゆる黒服なので、真紵には伝わらない夜職の用語が飛び出してくることがある。波潤は気にとめず、ガリガリ君を咥えて首をかしげた。

「あのね、おれはしてないけど、てかおれバイトだし、でもセンパイの黒服さんって担当のキャストがいンの。その娘の出勤管理とかおせわとかして、その娘が売れたらその人の給料もあがんの」

「はあ。つまり商品管理ね」

「ウン。でね、イロカンってのがあってね、黒服がキャストのカレシのフリして、いろいろすることなんだけど」

「…ん、いいの、それ? 客にとって嬢に彼氏いるのマイナスでしかないでしょ」

「あーのね、カレシのフリすんのは、女の子に対してってことで、えーと、つまり、ほんとはよくないんだけど、店のなかでもアンモクノリョーカイ、っていうかぁ」

「……な、る、ほ、ど?」

 真紵は、それなりに鋭い勘と付き合いの長さで、波潤の要領を得ない説明をいち早く汲みとった。

「……要するに、黒服スタッフがオンナ誑かして上手に働かせるんだな? オンナは健気にも、店にくれば彼氏に会える、アタシが頑張れば彼氏のお給料があがる…と、その“カレシ”のため、身を粉にして働くと。ったく、ホストかよ」

「そーそーそー、めっちゃ伝わった、サンキュ」

 真紵は彫りの深い美貌をしかめながら、スマホをとって検索欄にイロカンと打ち込んだ。どうせ色恋管理とでも書くのだろう、と思ったら案の定正解で、余計に声が低くなる。

「……………で、お前がその“イロカン”してたって話?」

 俄かに場の温度が冷え込んだように、波潤はぶるっと震える。

「わあ。でた、まおくんの空気をあやつるのーりょく」

「ふざけたこと抜かすな」

 でも、まおくん怒るとなんか空気がつめたくなるんだもん…とぼやきながら、波潤は動じた様子もなく、両手を肩まであげてふざけた降参のポーズをする。

「ちがうよぉ。俺さ、そンとき、みゆとユナって娘と仲よかったんだよね。俺は、お菓子くれるし、話してておもしろいなーくらいだったんだけど。そしたらユナが俺ンこと好きになっちゃったの」

「……ほう」

「で、俺そンときは別にまおくんのこと話してたわけじゃなかったんだけどぉ。でも、俺が誰かと暮らしてるってのはなんか、わかっちゃってたみたいで。そしたらね、ユナが『みゆと付き合って同棲してるんでしょ!』ってカンチガイしてさ、すっげーもめたんだよね」

「………ふうん」

「や、マジでチンチャ…センパイはさあ、ガチで二人にイロカンしてて、片っぽと半同棲しててもう片っぽの娘とクッソもめたことあるらしいんだけど、でも俺これわるくないじゃん。俺、ユナのカレシのフリとか、そもそも好きなフリもしてないのに。でもこれでユナかみゆがお店やめたら俺が怒られるし。だからもーめんどくさくなって、まおくんのこと話しちゃった」

 これカレシって見せた、と波潤が真紵の目の前にiPhoneを突き出す。大きな掌にすっぽりおさまるiPhoneの画面いっぱいに、まるで映画俳優のような横顔を仰角で撮られた真紵の写真が表示されていた。

「ンだこれ撮られたの知らねーんだけど」

「だって盗撮だもーん」トレンチコート着たまおくーん、と、嬉しそうに画面をスライドさせると、別の壁紙も現れる。どれもこれも覚えのない自分の写真で、真紵は軽く目眩がした。ご丁寧に、アプリのアイコンが顔にかからないように位置を調整までされている。

「さっきのおべんきょーまおくん、新しい壁紙にすンね」

「…はいはい、ご勝手にどうぞ」

 肖像権について彼に何を言っても無駄そうなので、匙を投げた。それに、勝手に写真を撮るのはさておいて、他人に見せびらかす理由を聞いたあとでは、真紵もそれほど咎めるつもりになれなかった。

 改めて赤ペンを持ち、記述式の答案の採点を再開する。そんな真紵の行動を無視して、波潤はごそごそと(真紵の根気良い節約教育でやっと使うようになった)エコバッグを広げだす。

「鍋でいい?」

「キムチ鍋はやめろよ」

「もうキムチ鍋の素買っちゃったー」

 波潤は「鍋ってサイコーだよね」と、真紵以外にはわかりにくい楽しそうな声音で、ニラや鶏肉をテーブルの上に並べだす。答案の上にも置いていくので「おいコラ」と軽くキレながら、仕方なく紙の束を足下に置くとふと訊ねた。「お前、そんな鍋好きだっけ」

「や。洗いものラクだから」

「……」

 波潤からそんなに所帯じみた理由が出てくるとは思わなかった。それと同時に、なんだかいらいらして、真紵は立ち上がる。

「俺がやってやるから」

 波潤にまるごと世話をされているような気持ちになるのが腹立たしい。自分は決してこの男に飼われてなどいないのだ、と、内心で繰り返しながら手早くコンロと鍋を準備する。

 波潤仕様の鶏肉とニラのキムチ鍋は、市販の素を使っているというのになぜか大層辛いので、真紵は波潤が余計なものを入れないように見張りながら、冷蔵庫に放置されていた豆腐を取り出して掌の上で切る。その間に「米、いる?」と問えば、背後から「うん」と嬉しそうに云われたので、「冷凍してあるやつチンしといて」と仕事を与えると、素直に云うことを聞いてレンジとにらめっこしだしたので、よしよしと放っておいて残りの作業を進める。

 ひととおりのセッティングを終えるまでに、波潤の尻を叩いて服を着せたり、靴下を洗濯機に入れさせたり、上着をハンガーにかけさせたりして、ようやっと二人が食卓につく頃には、窓の外はすっかり白み、カーテンの隙間から冬の朝陽が差し込んでいた。

「今日は鍋だし、明日休みだぁ、うれしい」

「はいはい。よかったですねー」

「まおくん」

「なに」

「セックスしよ」

 真紵の持つおたまが豆腐を割り砕いた。

「……三大欲求はひとつずつ満たしてくれませんかねえ!」

「あとでだよぉ」

「いや今おっ始めようとしたらガチでぶちのめしてたわ。今云うなって話」

「怒ってるぅ。その顔みると、なんか今したくなっちゃうな」

 逆効果だった。真紵はため息をついて眉間を押さえる。波潤は基本的にセックスと暴力を同じものだと思っている節がある。特に自分が殴った後に真紵に殴り返されるのが大好きなのであった。

 ぼろぼろになった豆腐を箸でつつきながら、ぼそりと真紵は云った。

「食べ終わって片付けて、俺が風呂入ってからね」

 わあい、と真顔のまま喜ぶ波潤の取り皿に豆腐の残骸をうつしながら「あと洗濯機回してから」と付け加えた。

 そういえば、出会ってから数年経つけれど──随分と波潤は自分の云うことを聞くようになったな、とふと思った。好きだ好きだと云いながら自分を玩具にして蹂躙していた獣が、ここまで牙を抜かれることがあろうとは、と内心冷笑したつもりで、飲みくだしたキムチ鍋の熱さが胸にしみた。

 これも色恋管理イロカンというものなのかもしれない──どちらが恋に落ちているかなど、はっきりさせるつもりも、理由もどこにも無いが。







乾いた口に淀む言の葉を焦がして

潤んでは出合う眼差し

生きているわたしと

これっきりの今日とあなた


──色恋沙汰 椎名林檎

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