マネキン 5 (旦拝)
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加治井は、拝原の所属していた映画同好会のOBで、そのとき既に演劇研究会を母体とする劇団を立ち上げて活動していた。まだアルバイトなどはしていたように思うが、当時から書いた戯曲で賞を獲り、イギリスの国際芸術祭に招かれたりしていた記憶もある。彼の名前を検索すれば、ウィキペディアにも華々しい(少なくとも拝原にはそう見える)経歴が記載されているので、きっとその頃から、将来を嘱望される演出家であり、劇作家だったのだろう。
「サラ・ムーン、映像の方が向いてるんじゃねえの。写真よりもさ」
同好会で月に一度行われる映画の上映会のたびに、ふらりと酒瓶をぶら下げてはやってきて、二言三言、意見を水面に投げるだけ投げ、波紋など興味がないというように去っていく。
そのときの会長は、日本アートシアターギルドで上映された作品を、必ずその上映会でかけた。白黒の外国のアートフィルムや、気鋭の監督のとった実験映画を流しては、議論を交わすのを好んでいた。その雰囲気は多少、拝原にとっては賑やかすぎたが、片隅に体を縮めて、黙って話を聞いているだけでも楽しかった。
拝原は、加治井の戯曲のタイトルが好きだった。
海の塩、夜の光
一握の星
The phantomship on my tongue
贋作 嵐が丘
スプーンの上の荒野
BEAUTIPHILIA
睡蓮:エチュード篇
Alice on the moon
Fly me to the star
サディスティック・アップル《第三楽章》
感傷的なパスティーシュとして名づけられたロマンチックでリリカルな言葉えらびの裏側に、換骨奪胎という単語の文字列の残酷さが透けて見える、加治井のうろんな美学。
すべての公演を観たわけではないが、ほとんどの舞台で、拝原は加治井が自分にした行為のオーバーラップを目にした。
人体改造、性的倒錯、被加虐欲求、それらのすべてを、書き割りの城と、転落するための大階段と、暗幕の闇から引き抜かれて出現する血の真紅で覆い尽くして「これが芸術だ」と名乗りをあげる。
くらいくらい舞台の上、スポットライトの豪雨を浴びて銀に輝く、欲望の血に濡れた、抜き身の、剥き身の、芸術……。
「会うたびに、こういうことやってたんですか」
ぼうっと回転する、蛍光灯の白い光輪のまんなかに、黒い顔がある。逆光になった旦波だ、と脳が人間的な活動性をとりもどすまでに、数拍の呼吸があった。
二度めのモーテルの部屋は、前と同じような気もするし、壁の色が違うような気もした。くすんだ色に四方を囲まれて、やけに眩しい灯りを消さないままで行為に及んでいた二人の姿を、光はただ見下ろしていた。
「あうたびに、…っていうか……そのためにあってたようなものですし……」
噛み殺していた声を出そうとすると、咳が絡み、喉の奥で血の味がした。
ベッドに膝をついて、拝原の腰を跨いでいた旦波は、一度息をつくと、ベッドから降りた。
「一ヶ月に何度も、こんなに体をめちゃくちゃにされて。よく仕事に支障が出ませんでしたね」
「……い、いや、さすがにこの頻度では会ってませんでした、よっ…?」
思わず、がばっと身を起こして抗議してしまった。ぽた、と顎から鼻血が垂れて、枕に落ちる。
「リョウさ…、……あの人は別に、会いたいとか、セックスしたいとかで、僕を呼びつけてたわけじゃないので」
「へえ、そうだったんですか? ……不倫してたのに?」
ぐ、と息も、言葉にも詰まる。首を絞められたように。
「……不倫というのが、妻や恋人以外の人間を愛する、という定義でいうのなら、僕は──不倫相手にすらなれないと思いますよ。……まあ、」
逢い引きしてセックスしてるんだから、端から見れば似たようなものでしょうけど。文章を最後まで声にするのは諦められ、後半は吐息だけになった。ずるりと体が沈み、血の染みた枕に頬が触れる。ほとんど冷えていたけど、中心部はまだ生暖かくて、べちゃりと舌のように皮膚に貼り付いた。
「なんでしょうね。実験台というか、叩き台なんですよね、要は」
へら、と笑った口許から、苺のような血が滲んでいる。赤いくだものに、針を刺したら赤い液体がつぷ、と球になって溢れてくる。こんな風に。
旦波は、その三日月じみた目を崩さず、その血を見ている。
ずき、ずき、と、凹んだ胸の真ん中が、空気に押し潰されそうに痛んだ。
「インスピレーションのもとって言ったら、大層すぎますかね。でも、あの人の芸術性の根幹には、確かに、人間を虐げるという行為があるんです」
黙って聞いていた旦波は、拝原のシャツに手を伸ばした。くしゃくしゃに折れていた襟を軽く直す。その自分の手にも、飛び散った血がついているのに気づき、シーツで拭いた。それを目で追いながら、拝原は鼻血を垂らして、苦笑する。
「いくらなんでも、俳優さんを殴ったり、傷つけたりはできないでしょ。だから、僕なんです」
旦波は彼の舞台を見たことがないだろう、ということを、拝原は知っている。醜い欲望を、摸倣による虚飾で芸術に仕立てあげた妙なる情念の陳列室。
グロテシズムとロマンチシズムの結婚とすら呼ばれる、悪夢で編まれたドールハウスみたいな舞台。
この小さなモーテルの部屋のように、濃密な欲と暴力の気配が漂う方舟。
旦波は表情を変えず、拝原の目を覗き込んだ。いつでも並外れた長身から見下ろす角度なのに、なぜだか不意に、足元にすがりつかれたような気にさせる独特の目付き──それが、今は真下から上目づかいに、旦波の足元からゆらゆらとまといつく。
この目のなかに、蒼白い火花のように、か細い怯えの奔る瞬間が欲しい、と感じさせるなにかがあるのだ。
その感覚が炎になる。
空っぽの身体が、温度のない火が傷痕を舐めるのを感じとる。ぎしぎしと鳴る関節が、血を滴らせる傷口のような唇が、糸でひっぱられて動く、無意識に、その欲望の火花を煽るために。
華麗なる地獄を作るためには──こころもからだも好きにできる、骨と肉の人形が必要なんです。だから、僕のこと欲しがるんです、あの人。結構、仕事人間なのかもね。
あのたくさんの舞台、みぃんな、僕が人柱になってるんですよ。
黙って聞いている旦波は、笑顔を形作るせいでいつも細められている目を、少しだけ開いていた。旦波の瞳は、墨を溶かした水のように感情が見透せない。そのぼんやりとした黒い淵を覗きこむとき、無意識のうちに、肉体の感覚が水のように崩れ、現実との境界が曖昧になっていく。残るのは、彼の瞳を見つめている意識だけ。だから、思考が溶け出すように分解されて、言葉となって流れ出していく。
ふと、襟元に添えられていた手が離れる。とん、と軽く首の付け根を叩かれ、そのままベッドに倒される。拝原は息を細く吐き出して、止めた。
「僕、演劇には疎くて。こんなことをする人たちが、出てくる作品なんですか?」
「いっ…」
背中に足を乗せられ、骨をにじられる。
「これが芸術になるんでしょうかね? 僕は芸術には疎いので、よくわからないですねぇ」
張り出した肩胛骨に、踵を押し当てて、丁寧に力をかけられる。少しずつ、丹念に、体の一点のみを押し潰すようにして。そこを起点に、苦痛の火花が肉体に放散していくように。
「それに、あちらの目的が真にそうだというのなら、拝原先生──あなたは、つまり、自分のことを愛していない人を、愛しているんですか?」
「い、たい、です…たんば、せんせぇ…」
片手で枕を三回叩き、呻くように発する。中断してくれ、の合図だった。旦波の足がどけられ、酸素を吸い込んだ喉から血の味があがってくる。
大きく息を吸ったせいで咳き込んで、余計に苦しくなっていると、背中をさすられた。「大丈夫ですか?」と、先ほどとは違う温度の声で問われ、「休憩」か、今日はおしまいなのか、とぼんやりした頭で理解する。
旦波は、自分の鞄のなかから、ミネラルウォーターのペットボトルを二つ取り出すと、ひとつを拝原に差し出した。
「……僕、それほど人とお付き合いしたり、っていう経験がないので。なんだか複雑というか、いろんな関係があるんだなあ、と思いましたよ」
なんなら多少弾んだ口調で言われ、拝原はいつもながらぞっとした。この話題でなんで声が明るくなるんだ……と、受け取ったミネラルウォーターを一口だけ飲んだ。
「……普通の恋人だったら……そうですね、お互いの仕事とかにもよるけど……一、二週間に一度くらいはまあ、会ってるんじゃないですか?」知りませんけど、と投げやりに付け加える。
「うーん、確かに大学のときに付き合っていた女性は、週末のたびにデートをするのが当然、というタイプでしたね」
「いや、経験あるんじゃないですか旦波先生………」
「でも、僕、お恥ずかしながら」そこで初めて旦波は言い淀む。「──その人と、性行為は一度しかしなくて」
「あぁ………あ?」
思わず口を手で押さえた拝原の視線を受けて、旦波はすぐに「そのときは大丈夫でした。というより、大丈夫なようにしました。耐えました」
「あ、あぁよかった……いや、こんなこと、女性にしたら死んじゃいますよ。たぶん」
拝原の身体中に残る複数の傷痕は、逢瀬のたびに重ねられて今や鱗のように、赤や青黒や緑や、紫や黄褐色を散りばめている。はたからみればさぞグロテスクだろうが、旦波はいつもこの上から歯を立て、新しい赤を刻み込む。彼の歯の感触を覚えた。噛み締めながら滲む血を舐めとる舌のざらつきも知っている。
「要するに、普通の恋人が、そうですね……一ヶ月に四回会って、そのうち一、二回セックスすると仮定すると」指を四本立て、そのあと一本折り曲げる。それだけで腕全体と、肩に鈍い痛みが広がる。「………セックス以外の目的で会う日──"会いたいから会う日"、っていう概念がそもそもなかったんですよ、僕とリョウさんは」
つらっと名前を口にしてしまい、拝原ははっと思わず口を押さえかけた。旦波はそれをみて、不思議そうにした。
「だから、会うたびにこんなことをしてた、としても、それはせいぜい一ヶ月に一、二回なのであって……」
何が言いたかったのかわからなくなってきた。そもそも、なぜ旦波相手にこんなに躍起になって解説しようとしているのだろうか。うんうんと、頷きながら話を聞いている旦波の顔を見ていると、なんだか無性に心がさざなみだった。
「……旦波先生が余計なこと言うから」
「え、僕がですか」
なんだかすみません、と頭をかきながら謝られ、もっといたたまれなくなる。
「でも……じゃあ、どうして僕とは一ヶ月に何度もこんなことをするんですか、拝原先生」
「え、ええ………」
蓋をし終えたミネラルウォーターのボトルを、くんっとひっぱられて、反射で腕を引いてしまった。
「だから……その……」
抱き込むようにボトルを胸におしつけると、凹みにはまり込む。結露したつめたい水が、臍のくぼみまで垂れて、溜まる。
自分は、──会いたいから呼びつけているのだ、と言っていることになりそうで、言葉に詰まった。
欲望の城。傾いた、舞台の上でぬらぬらと輝く、人の業を閉じ込めた箱……。
その上で、光を──雨のように──罰のように、浴びて、演じる魂の奇形たち……。
オーバーラップ。
ぽとり、と足の間につめたい滴が落ちる。
俯いたまま、拝原はなにも声を出さずにいた。旦波は横からその顔を覗き込んで、軽く肩をさすろうと手をだしたが、そっと下ろした。
これもまた、欲望という名の恋だ、と、認めるのはあまりに恐ろしかった。
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