マネキン 4 (旦拝)

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 初めて他人に裸を見せたのは、西日の射すアパートの一室でだった。

 陽光に色褪せるままにされた中古の文庫本が、ぎちぎちに詰められた本棚が落とす影に隠れるよう、必死に足を縮めた。

「逃げるな」

 加治井かじいの声にびくりと身を震わせると、足に巻き付けた細い紐を乱暴に引かれ、皮膚が擦りむけた。

「本当に、損な顔してるよなァ、お前は」

 毛羽立った紐を後ろ手の手首に巻かれ、肘の辺りまで強引に引き寄せられ拘束される。頸が反り、尖った喉仏の脇を、苦痛による汗が伝った。

 ベッドから、西日に灼かれる床にそのまま引きずり落とすと、加治井は拝原を膝で立たせた。目映いものをみるかのようにうっすらと開かれた拝原の睫毛を、指先で撫でた。

「世界でいちばんの、奴隷の顔だよ」




 雨が降っているのだろうか、と思った。目を開けて少しの間、ほんのわずか遠くで響く水の音。

 枕元の時計を確認すると、深夜の三時頃だった。寝返りをうとうとした途端、全身に走る痛みに、布団のなかで折り畳んでいた体をさらに縮める。その瞬間、昨晩からのいろんなことを思い出した。そして、部屋をくるみこむように途切れなく降る水音が、シャワーの音だということも理解した。

 服を着なければ、と、なんとなく思った。自分もシャワーを浴びるとして、それまでシーツだけに頼るのは、なんだかこう、心もとない。

 上に着るものだけでも、と、自分には小さすぎるベッドをおりて床に足をついた瞬間、そのまま力が抜けて転がった。強かにどこかを打った音がしたが、既に全身が痛いので、どこを打撲したのかよくわからなかった。

 シャワーの音がやむ。あ、と思う間にすりガラスの扉が開き、バスタオルを取ろうとした旦波が、転がっている拝原を見て「うわっ」と声をあげた。

「大丈夫ですか、拝原先生。寝ててください」

「あ、や、大丈夫です大丈夫。ちょっと床が恋しくて」

 ぽとぽとと旦波の髪からしずくが垂れて、一滴の血も混ざっていないそれに、青暗い部屋の様子とバスルームの橙色の光が反射して、ひどく美しく見えた。

「すみません、勝手にシャワーお借りしちゃって」

「いえ全然。というか、名目はそれでしたし……」

 実際にシャワーを貸すと言った段階では、拝原はもう腹を決めていたのだが。なお、自分からしかけたはいいものの、旦波の予想外の荒れ狂いように最中に失神し、目が覚めたら、ベッドに寝かされて布団をかけられていたのだ。痣や噛み痕は仕方ないが、血や涙や精液は拭き取られていた。

「……あの、ここにいるの、亀ですよね?」

「あ。ジョージのことですか」

 首だけを動かして、洗面所の隅を見る。大きめの水槽には、砂利が敷かれている。全体に小さめの観葉植物を配置し、小型の温熱器の脇には、子供用のバケツを横に倒して置き、そのなかには緑がかった岩石に見える……小さな甲羅があった。

「拝原先生が飼われてるんですか? ジョージ君…君ですよね?」

「そうです、雄です。大抵の物事に動じない、大物です」

 飼い主の痴態醜態も我関せず、とばかり健やかに寝ているリクガメを、ちょっと左目を細めて見つめたあと、拝原は、髪を拭いている旦波に向き直った。

「……シャワー、しみたでしょう」

「ええ、はい……」

 苦笑し、旦波は肩や腰に手を当てる。露骨な爪痕に、拝原も居心地が悪くなる。爪の伸びたマネキンなんて聞いたことがない。

「……僕もシャワー浴びてきます。そのあと、どうにかしましょうか」

 下手な笑顔をつくると、旦波も「そうですね」と少し弱い声で同意した。彼が、手に取った下着のビニール包装を破る音を遮るように、拝原は扉を閉めた。




「男ってのは損だよなァ。女は年増だろうが鶏ガラだろうが、脱ぐだけでどっかしら絵になるが、男はいい体してたって滑稽なばっかりだ。貧相なら、」

 なおさら哀れだね、と、拝原の浮いた肋骨の隙間に指をいれて押し込みながら、痛みにひそめられる表情を、男の眼はじっと観察しているようだった。

「……僕は好きですけど、男の体」

「そりゃ単なる性欲だ」加治井は煙草の灰をアルミホイルに落とすと、肋骨の下縁から、器のように出っぱった骨盤の蕀までの、凹んだ青白い腹を撫でてから──乱暴に掌で押した。

「美しくなれねえなら、慄然ぞっとさせなくちゃぁ、な」

 息が詰まって咳を繰り返している拝原の、鳩尾のくぼみに、加治井は灰皿代わりのアルミホイルを置いた。

 一番下の肋骨を、煙草を指の間に挟んだ手で繰り返したどりながら、内臓を守る骨の蓋をこじあけたいとでも言うように、強く骨の内側へ爪を食い込ませた。

「ここに、リングピアスをこう、上下にあけて──弦をわたして弾かせたら、さぞグロテスクに見えるだろうな」

 潰したバイオリンみたいな身体を撫でながら、加治井は「雨らしいけど、裸足で出かけたら面白いかもな」と言うような口調で呟いた。

「それともこっちか」

 肋骨をたどって、乾いた指がシーツと体の間にねじ込まれ、肩胛骨を押した。

 皮膚どうしの接触が、粘膜との境界線をこえたのはいつからだったろう。

 唇の内側に指が侵入してきたのは、初めて服を脱いだ日だったし、それが乱雑な愛撫と呼べなくもないものに変わっていった過程を、棄てられたマネキンのようにただ受け入れていただけの拝原はよく覚えてはいなかった。

 いつも、好きに玩んだあと、なにも言わずに入ってきた。固い締まった肉感に富んだ下腹の、あたたかい皮膚とその下のやわらかい脂肪と、張った筋肉の重なりを、押し当てた指で感じるのが好きだった。男の肉体は層で、果皮の下の果肉が熟れていくように、年とともに少しずつやわらかくなっていった。陰毛に、白いものを見つけた。

 関係を持ってから十五年近くもなる。

 その間に加治井は妻となる女と出会い、結婚し、二人の子どもが生まれ、拝原は独り身のままで、一度大動脈解離で入院し、生死の境をさまよい、悪意の水槽になった。

 時は水のように流れていく。

 そうして、濁った冷たさで、なにもかもをゆっくりと押し流していく。




 旦波先生、若いなァ…、と、シャワーの音を聞きながら、拝原はぼんやり思考した。蛇口を捻るとすぐに熱いお湯が出る。独り暮らしだと、冷たい水がお湯になるまで少し待たないといけない。

 しゃがむだけでふらふらして、そのままころんと、バスルームの入り口に敷いたタオルの上に転がりたい。

 旦波先生、肩のあたりとか、腰とか、ぶ厚かったなあ、腿とか、なんか詰まってるって感じで……と、ぼんやり肉体の輪郭と、質量を思い描いてしまう。情事の終わりというには、あまりに傷が多すぎたが、目覚めたのちに身体中を覆っているのは、毒素のように甘ったるい、そして思考を蝕むような倦怠だった。

 そのとき、扉越しのこもった声が聞こえた。

「拝原せんせーい、生きてますか」

「あ、はい。…え、老人への声かけ?」

「すみません、あんまりシャワー以外の物音がしなかったので」

 すりガラス越しに心配そうな声をかけられ、ぼんやりと毒素に支配される感覚をなんとか振り払う。

 シャワーを止めると、湯気が少しずつ下におりていって、ガラス越しに誰かが(と、いうよりは旦波が)しゃがんでいるのがわかり、出るのを多少躊躇した。

「出ていいですか?」

 結局、細く扉を開けて問いかけると、背を向けていた旦波は振り返って「あ、ごめんなさい。出にくいですよね」と、もう普段と変わらない笑顔でどいた。ジョージの水槽を覗き込んでいたらしい。

 気に入ったのだろうか、と、旦波の背中と図太く眠り続けるジョージの甲羅を見つめているうちに、くしゃみがひとつ出た。



「終わってからコレするの、一番面倒なんですよね……」

 絆創膏や湿布が投げ入れられた箱を、洗面所の戸棚から出してきた拝原の肩を、遠慮がちに旦波が叩く。

「拝原先生。僕、救急箱持ってきてるんです。小さいのですけど」

「はえ。そうなんですか」準備よすぎませんか。驚きで、三十代半ばの男とは思えない腑抜けたあいづちが飛び出た。

 言葉通り、小さな把手のついたプラスチックの箱を鞄からとりだした旦波は、器用そうな手つきで消毒液の蓋をあけた。「保健室の沙魚川先生ほど上手じゃありませんけど、」と前置きして、綿棒で消毒液をつけていたが、そのうちに「そういえば、」と声をあげた。

「消毒液って、実は傷痕が残りやすいらしいんですよね。最近、体育の指導でも、擦り傷はまず洗浄だけのほうがいいんじゃないかっていう意見が」

「え? そうなんですか?」

「うーん、まだ意見が出てるだけなのですが……僕は、グラウンドだと傷に土や砂がつきがちだし、菌が入ったりするのが心配なので、消毒したほうがいいと思いましたけど。でも、実際に病院でも、子どもの擦り傷には洗浄だけっていうところもあるみたいです」

「なるほど……僕はまあ、今さら傷痕もなにも、っていう感じですけどね」

 無い右目の瞼に触れながら、へら、と力なく笑った拝原の左目は、一瞬だけ旦波の腹部に注がれていた。そこに目を逸らしたくなるような大きな火傷痕があるのを、拝原は知っている。消毒液ではなにもできない、古い永遠の傷。

 肩の歯形を消毒されたとき、思わず「痛っ」と声が出て、慌てて言った「すみません」という言葉が、旦波の同じ台詞と重なった。

 同じように、旦波の腰や背についた赤いひっかき傷を消毒していくと、なめし革のようにてらてらとした傷痕の縁に、綿棒があたった。一瞬、手が止まる。

 自分は、抱かれながら、ここに触れただろうか? 触れていないはずはない、赤い線は盛り上がった縁をこえて、窪んだ肉色の皮膚の上に続いている。渦のようなひきつれは、固いように見えて、その実柔らかかったりするのか、感触を覚えていないのが、少し惜しかった。

 薄い赤に染まった綿棒を捨てようとしたが、立ち上がるのが負担で、ずるずる蛇のようにゴミ箱の方へ体を伸ばすと、上半身を支えていた肘がかくんと折れて潰れた。

 普段なら、もうそのまま床で寝てしまうところだが、一応人前である。先刻までこの比ではないほどの醜態を晒しあったことは棚にあげ、拝原はなけなしの社会性を振り絞って、体を起こそうとした。

「あの、拝原先生」

 肘より少し上をつかまれ、ぐいと引き上げられる。肩胛骨のあたりから多少えげつない音がしたが、モーテルでの出来事に比べたらどうということはない。そのまま座った形に直される。

「すみませんでした」

 突然、旦波に深々と頭を下げられた。「えっこちらこそ!」反射で拝原も頭を下げたため、お互いに顔が見えなくなる。

「僕、ここまで…なんていうか、理性飛んじゃったの初めてで。拝原先生、動くのも辛そうで、本当に申し訳ないです」

「い、いや! 旦波先生、頭あげて……ていうか、あの、これ……二人揃って頭さげてって…絵面がなんか……」

 お互い向かい合って頭を下げて、見つめられるものは床だけだ。拝原は、床に短い黒髪が落ちているのに気づいて少し気まずくなったし、旦波は拭き取り忘れた鼻血の痕が、乾いて床に残っていたのに気づいて、やっぱり気まずくなった。

「あのぅ、本当に、そもそも僕が頼んだことですし……基本、旦波先生に非ないので」

 気持ちよかったし、と、言葉が浮かんだとたん、拝原は思わず口を押さえた。

 また、あの衝撃が。

「……拝原先生?」

 優しい声に、脳みその真ん中から腐ったように花が淫れ咲き溢れて、ぐじゅぐじゅと視界が赤とピンクに染まった。

 衣擦れの音がした。俯いた視界のなかに、膝の影が入ってくる。

 呼吸と鼓動が速くなる。脊椎にやわらかい弾丸。体内で破裂してめくれあがり、毒入りの砂糖衣がおなかの奥を食い荒らす。

「先生、あの、旦波先生ぇ……」

 本当におぞましかったのだ、最中は。

 顔をあげなくてもわかった。旦波の黒目勝ちの瞳が、あの深い切れ込みの隙間からこちらをとらえている。

 怖い、怖い、この男が。惚れた相手の何倍も。

 なのにどうして、もう一度が欲しいなどと思うのだろう。

 濡れた耳のすぐ下に、あたたかい指が触れた。

「次はいつにしましょうか」

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