マネキン 3 (旦拝)

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 ドアの向こうからは、青い薄闇と一緒に、冷気がとろりと流れ出てきた。壁に指を這わせて、電気のスイッチをぱちん、と入れると、射るような白い光が箱のなかを満たした。それでも、部屋の奥にはまだ暗闇がこちらを窺っている気配がする。

「お邪魔します。…きれいにしてらっしゃるんですねぇ」

 靴が一足と、黒いこうもり傘だけが置かれた玄関で、旦波は部屋の奥を、拝原越しに見て呟いた。その目が、部屋の奥に凝ってうっそりと嗤っている薄闇を見ているように感じて、拝原はさっさとリビングの方へ移動しながら言った。「さっきコーヒー飲みましたけど、なにかあったかいもの、いれましょうか」

「ああいえ、お気づかいなく」

 旦波は手に持ったままのアイスコーヒーをテーブルに置いた。暗い色のテーブルの上には、コンビニで買い物をしたときにつけられたプラスチックのスプーンが、ビニールに包まれたまま幾つか置きっぱなしになっている。使う気にもなれないが捨てるのも勿体ないと思ってしまうのだ──横に置かれたティッシュボックスの上に、エアコンのリモコンがおかれて、表示が「除湿」のままだった。妙に冷えてるのはこのせいか、と、拝原は痛む膝をおさえて屈み、停止ボタンを押す。

「適当に荷物は置いてください、洗面所と風呂場はそこの……あ」

「どうかしましたか?」

「せっかくローソン寄ったのに、着替え買えばよかったですね」

 へにゃ、と眉が下がる。笑うと、困ったような表情になるその唇の端には、まだ赤い血の線がこびりついていた。

「さすがに下着はヤでしょ、洗ってるとはいえ、他人の」

「普通に穿いてたものをそのまま使いますから、別に大丈夫ですよ。別に拝原先生のが嫌ってわけじゃなくて、そういうものをお借りするの悪いですしね」

「んー、あー……五分…いや…八分くらい歩くとセブンがあるんですけど……」

「八分って、絶妙に面倒になる距離ですね!」

「ほんとそれなんですよ。…そういえば、旦波先生って、あー…やっぱりいいです」

「え、なんですか」

「………"飛んでも八分、歩いて十分"ってわかります?」

「いいえ。キャッチコピーか何かですか?」

「ですよねぇ……」

 お互いの顔も見ずに、いやに軽やかな会話がふわふわと飛び交う。

「……あ」

 タンスの引き出しを開けて、中をまるで土でも掘り起こすように探っていた拝原が、何かをその奥から引っ張り出してきた。それをくるんでいるビニールが微かな音を立てる。

 未開封の、それこそコンビニで買ったような下着の包装だった。濃いグレーの、包装の表記によるとボクサースタイルのようだった。

「…これ、使います?」

 たぶん、サイズは大丈夫だと思います。妙に感情の薄い声で拝原は言う。

「いや、ほんとに……うーん」

「……僕のじゃありませんから」

「ああ、いや、そこが気になるんじゃないんですけど」

 しかし厚意を無下にするのも、と眉尻が下がった笑顔が悩んでいる。彼は腕を組んでいて、その拳の指の付け根に、擦りきれた赤がぽつりと目立った。

 拝原はそれを見ているうちに、ずる、と関節が少しずつずれていくような気がして、そしてから、──また、あの、昏い水が、胎の奥からじゅんと滲みだして、黒く暗く重たく、ぬかるんでいくのを感じた。

 テーブルの上のアイスコーヒーの黒のなかで、氷が割れた。

「……じゃあ、お借りしてもいいですか? 洗って返しますし……いや、新しいのを…………、先生?」

 ぎくしゃくと、もたれかかるように、背中から旦波の肩に腕を回した。人間のカラダの密度の、熱の塊を感じたとたん、だらりと力が抜けた。

「拝原先生?」

「…コーヒー、受け取りましたよね」

 旦波の身体に巻きついた腕が、きし、と曲がって、ぎこちなく指が組まれる。長すぎる腕のいびつな輪のなかで、旦波は拝原の手と、うなじ近くで俯けられた拝原の顔を交互にみていた。

「……拝原先生、これって」

「シャワー、貸しますって、…そういうことでしょ」

「拝原先生、」

 もつれるように長い手足が、ゆっくりと絡む。針金で人形を縛るように。旦波の肩が、少しだけ震えた。

「あったかい、です、ね……」

 声が途切れ途切れになって、腹と背がひたりとくっつく。濡れたコップをつかんだ掌と同じ体温をしている。

「……そういうこと、なんですね」

 やがて、ぽつりと旦波が呟いた。こういうときの彼の様子を知っている拝原は、それでも身体を離さなかった。

 以前、旦波は性的な接触に強い戸惑いと抵抗を示していた。その反面、実際に肌を触れあわせたあとは、精神の関節が外れたように途方もなく狂っていた。この人の身体を知っている、という気持ちが拝原のなかに溜まり、水面がうねり、不透明にぎら、と輝く。自分と同じように傷だらけの身体を。

 困惑とそれから、それより深くからやってくる得体の知れない何かが、じわじわとうねって、とろりと、空気の密度が増していく。

 部屋という小さな箱のなかに、水が満ちていく。

 手首をつかまれ、引き剥がされた。と思ったら、身体を返され、向き直られる。旦波の青みがかった、昏い瞳が目の前にあった。そのまま足の間に大きく一歩踏み出され、よろめいた途端に足首を蹴られてベッドに背中から倒れ込む。

 どちらかの爪先がテーブルを蹴って、床にスプーンたちが落ちていく。

「そういえば、シャワー、先じゃなくていいんですか」

「ああ…」拝原は空気の抜けるような声で呟いた。「別に。どうせ、血とか、出るし……」

「それもそうですね」

 細められた眼を亀裂としてとらえる。無気味なほど朗らかに、しかし明らかにいつもとは違う階調の声に、殻が溶けていくような感覚に襲われる。肉体の殻、精神の鎖。降り続く雨に地層が流されて、埋まっているものが露呈していく。

 それは、女の形をしていると拝原は思う。

「……声とか、大丈夫なんですか?」

「……抑えられますよ、別に」

 もの、ですから。

 好きにしてって言ったんだから、あなたの、もの、なんですよ。

 こういう、絶対的隷従の姿勢を見せたとき、相手の瞳にみえる、真っ黒い火のような本能が好きだった。

 女というのは、自分に向けられた欲望の暗さ、重さという泥濘に、足をとられてしまうものだ。そういう風に、からだの奥ができている。

 そして、男の欲望というものは、けして対象を人間として扱ったりしない。男にとっての「女」とは永遠に客体としての"もの"なのだ。

 純粋な欲望とは、狩りであり、暴力である。



「お前の眼な」

 ひとりめの子供が生まれる、ほんの一月か前だろうか。

 俯せにシーツに沈み、痣の鱗をまとってぐったりとしている拝原の背に、戯れに爪を立てながら、もうすぐ父親になる男は言った。

「そういう眼をした奴が嫁だと、家に帰る気もなくなるが、自分のものでないとあれば、ああ、あれも欲しいな、って思うんだよ。男ってのは狩りをする生き物だからな──」少しだけ無精髭の伸びた口元を、指が長い手が覆い、咥えていた煙草を指にはさむ。ふうっと烟を吐いた唇の、形よりも感触をよく覚えている。

「どういう眼ですか」小狡い、あるいは卑屈な、他人を苛立たせる眼だろうか。昔から言われてきた、殴りたくなる、罵倒したくなる、そういう眼……そんなことを思いながら、恐らくはその"眼"で──拝原は弱々しく笑んだ。

 惚れた男は、微かに眉をひそめると、拝原の背に煙草の灰を落とした。

「この世に、男が俺ひとりしかいねえって思わせるような眼さ」



「拝原先生」

 うなじを掴んで、シーツに押さえつけられ、優しいのに恐ろしい声が後頭部にまぶされる。

「僕、物は大事にする方なんです」

 顎から輪郭をたどり、頬骨までを、緩慢な速度で指の腹が撫であげた。皮膚の厚い旦波の指、綺麗に切り揃えられた爪は四角い。

「多少壊れかけでも長く使えるように手入れして」

 押さえつけられた首をねじり、眼球を動かしても、背後に圧しかかる男の表情は見えない。ままならない呼吸をいっそう押し潰そうと、旦波の声はゆっくりと響く。

「人目に付くところは綺麗にして」

 ぐらつく左目という名のカメラは部屋のあちこちを移動し、ピントが合ったりぼやけたり、蛍光灯に縁取られた輪郭は何重にもぶれて忙しなく明滅した。

「──でも結局ガサツなので、見えないところはボロボロにしちゃうんですけど」

 シャツ越しの肩に、痛みが食い込む。熱さと共に皮膚をこそがれる感覚、手加減がない。歯を食い縛ると舌の裏に唾液が溢れた。

「使い方にご満足いただけなかったらすみません」

 首筋に突きつけられた、優しい怪物の声。

 溶けて、頭蓋を犯す赤と黒の砂糖。

「──"モノ"に意思を伺うのも変な話ですけど」

 背骨の真ん中に、楔を打ち込まれたように衝撃が走った。

 お腹の奥が、ぎゅん、とする。そうとしかいえないどころか、拝原は一瞬、言葉という言葉が頭の中から吹き飛んでいた。遅れて、電流が脳を刺激して、今度はやけにはっきりと肉体の感覚が鋭敏になり、やっと自分が嗚咽のような喘ぎのような声を漏らしてがくがく太腿や爪先が震えているのがわかった。熱い。壊れそうなほど速く、肋骨や頭蓋の内部でどくどくと鼓動が反響する。鼓膜が痺れて、音が遠くなった。

「あ…う………」

 押し出されるように声が漏れて、瞼の内側から突然涙がぽろぽろと溢れてきた。

 のしかかる旦波の腕の感触は、残酷なほどあたたかく人間で、きしんだスプリングの振動で彼の肉体の重さを知る。指がシャツの中に入ってきて、腰に爪を立てた。銀の杭を打ちつけられたように身悶えて、その得体の知らないものから逃れようとした。おぞましく甘ったるいものが、骨を伝ってやってくる、この身体いっぱいに溢れる昏い昏い悪意の水を、痺れるような毒のシロップに変えてしまう。

 そんなのは厭。

 無機物でありたいのだ。


 顔が見たい、などと、思いたくは、ない。

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